解剖学の基礎知識がおろそかにされている(http://jp.depositphotos.com)
私が大学院に入って早々の頃、講座の上役とともに食事をしている時に言われたのが「社会解剖学」という耳慣れない言葉だった。「社会」という文系の言葉と「解剖」という理系の言葉が融合しているため、もの凄く不思議に思えた。
上役の言っている意味を正確に理解していたかはわからないが、私は日々の生活の事象の多くをつぶさに観察して物事を切ることを「社会解剖学」と認識した。
多くの日常の出来事や身体の感覚を駆使して体験したことを解剖学的に考えると、たとえば、話を聞いただけで疑うことなく信じてしまう状況であったとしても、「生活に根付いた観察力」と「今までの生活で養った感覚」で、その正誤を判断できるような社会と身体の感覚が融合される――。それが「社会解剖学」ではないかと思っている。
つまり、「ヒトの心理」と「体の構造」を理解して観察をすれば、日常生活のさまざまな事象に対して違和感を持って見ることができるようになり、事象の不思議な所が見えてくる。
たとえば、数年前に起こったゴーストライター事件も、冷静な目で見て、今まで出会った同様の障がい者の方と比べてみたら、不思議な違和感を覚えたはずだ。
医学教育の中での解剖学
解剖学の教育をしていて思うのは、学生の頭の中にある医療教育は、臨床のイメージで描かれているということだ。臨床で日々の医療に従事しているメディカルスタッフからは、「学生の時に解剖学、生理学を、もっとしっかりと勉強していれば良かった」とよく言われる。
解剖学の座学は、医療系分野の学生にとって最初の専門科目だ。授業においては、ノミナ(解剖用語)と言われる今まで接していなかった専門用語で話される。学生にとって初めての解剖用語は、その数に圧倒される。解剖用語は類似の言葉が多く、学生としては違う解剖用語なのに「またこの用語かぁ~」という錯覚を感じてしまう。
それに先輩などから、「解剖学は暗記科目」と言われているのだろう。「暗記科目なら、テスト前に出題されそうなところだけ勉強して……」となるのが学生の心理。これらの要素によって、授業における学生の集中力は徐々に低くなる。結果として、多くの学生にとって解剖学は、もの凄く眠い催眠術の様な授業となっている。
教師にとっても、学生にとっても残念な状態だ。このような環境とイメージがあるため、国家資格を持ったコメディカルスタッフに聞くと、「在学中の解剖学は睡眠時間だった」という話になる。