医学部で解剖学が軽視されている!(shutterstock.com)
2030年、日本の医療は大丈夫だろうか……。
この不安の根底にあるのは、医学部・歯学部における解剖学などの基礎科目の軽視だ。解剖学講座に属している先生方は、烈火の如く否定されると思うが、今の解剖学教室の9割は、読者の皆さんが思っているような、メスなどを用いて直接解剖する「肉眼解剖学」的な研究はされておらず、ほとんどの研究が最先端のDNAを用いた研究である。
ヒトの体の進化は、そんなに早く変わるものだろうか? 私はヒトの体は、沢山の動物の中では、物凄く進化の遅い、保守的な動物だと思っている。現在の解剖学が始まったとされるルネサンス期の書物さえも引用しようと思えば出来るくらいだ。
研究機関としての肉眼解剖学の実状
なぜ実際の研究と一般に想像される解剖学が離れてしまったのか? それは、皆さんが思っておられる様な研究をしていては教授になれないから、つまり、解剖学講座に就職できないからだ。
肉眼解剖学的な手法を用いた研究は、1本の論文を書くのに、場合によっては複数年にわたる膨大な解剖のデータが必要になる。しかし、DNAを用いた研究で、受精後初期の発生や臓器などの器官発生は、肉眼解剖学に比べたら短期間で多数の論文を書くことができる。また、肉眼解剖学の研究よりも外部研究資金の獲得が容易だ。
研究者間においても「肉眼解剖学は過去の研究であって、現在の研究では新しい発見はない」という誤った認識が、学力的順位の高い人ほど強い傾向がある。そのため「肉眼解剖学は過去の物で、研究している人は、天然記念物か絶滅危惧種」と揶揄されることが解剖学会内でも多くある。
しかし、100年以上も昔に論文が書かれたまま、それ以降の研究がされていない分野も多々に存在する。劇的な新発見ではなかったとしても、現在の機器で100年以上前からの解剖学を、螺旋階段のように、より深く追確認して、過去との相違点や誤認点を改めていくのも大事ではないか? 最先端の研究も大事だが、昔からの研究も大事ではないか?
このように、肉眼解剖学の分野は、DNAなどの研究者に比べて業績を出すことが難しい。しかし、肉眼解剖学が大事なのは知っていながらも、業績が出せない就職先であり、契約更新ができないため、業績の出しやすい分野の人が優先的に採用される。その結果、肉眼解剖学の後進が育たず、新しい研究者も入ってこない。定年で次々と肉眼解剖学の研究者は減っていく。
研究と教育の架け橋「教科書」の実状
医学に限らず教科書とは、研究分野の集大成として授業に用いられるものだ。多くのコンセンサスが得られた、基礎的で大切な事柄が掲載されている。
しかし――。以前、医療従事者の専門学校の先生から頼まれて、ある分野の運動についての解説をまとめた時の例だ。この出来事で、現在の教科書のほうが過去の教科書よりも優れていると思っていた概念が、根底から覆された。
昭和30年代から40年代に出版された解剖学の教科書には、図とその説明が事細かく記載されていた。しかし、昭和50年代から平成へと入るにつれて、教科書の記載が簡略化されるようになった。その結果として、元の記述とは全く異なることが記載されている教科書すらある。つまり、改定を繰り返すたびに改悪されていたのだ。教科書の筆者は、なぜ気がづかなかったのか……。
それは、私の専門分野ではないことが増えたからだ。私自身がその部位を理解して解剖をしていない状況で、ベースとなった教科書等の文章をアレンジした結果ではないだろうか。
現在の解剖学の教科書の多くは、肉眼解剖学が全盛期だった時代の研究者が記載した論文を参考したものが大半であると思われている。解剖学の専門的な教科書の需要は決して高くないのが現状だ。執筆した先生の名前で買われることはあっても、内容の精密さで買われることはないのではなかろうか。
教科書の潮流は「できるだけページ数は少なく、図版は多く、文字は少なく」となっている。文字が少ないので、必要最低限の情報量だけが入っていると思われがちだ。確かに、図版は解りやすいが、時として誤解を招くこともある。図版は、それを理解した人が描いているから見やすいので、全く初めての人が理解するには文章が必要だ。
10年後、もし昭和30年代とかの教科書を気にかけている人がいなくなったら、内容が希薄になった教科書による医学教育は、いったいどのようなことになっているだろうか……。