徳川家康は遊女に接することを戒めた
1639年、江戸幕府は鎖国政策を実施。長崎出島での貿易相手国はオランダ、中国、朝鮮、琉球の4カ国に限られた。江戸は100万人を抱える大都市へと発展し、交通網の発達、上下水道の普及など、当時でも世界第一級の都市として繁栄した。
梅毒が性行為感染症であることは古くから経験的に知られており、徳川家康は遊女に接することを自ら戒めていたという。
一方、1626年には江戸幕府公認の吉原遊郭が設けられた。江戸期の遊女は実に8割が梅毒に罹患していたらしい。脱毛が最もよく知られた第2期梅毒の症状だった。
感染後3年ほどすると<鼻欠け>が生じ、皮膚の結節性病変、ひどい関節痛、内耳病変による難聴、眼球病変による失明、最終的には脳病変による歩行不能、嚥下困難が生じて死に至った。
江戸に住む男性の3人に1人が梅毒に
江戸末期の1854年、日本はついに開国した。英国の医師ウィリアム・ウィリスは、江戸に住む男性の3人に1人は梅毒にかかっていると記載。多くの市民が梅毒を運命(定め)として受け入れていることを、複数の外国人医師が驚きをもって記述した。
江戸中期、杉田玄白は『形影夜話』に50年間で数万人の梅毒患者を診察したが、治せなかったと記録している。
遊女に対する健康診断(梅毒チェック)を目的とした医療施設(駆黴院)は、英国の医師ジョージ・ニュートンによって横浜、神戸、長崎につくられた。しかし、当時「梅毒スピロヘータ」に有効な薬は存在せず、塩化水銀が治療薬に用いられたが恐ろしい副作用を引き起こした。
フリッツ・シャウディンとエリック・ホフマンによって「トレポネーマ」が発見されたのは1905年、秦佐八郎とポール・エールリッヒによってサルバルサン606が化学合成されたのが1910年。アレキサンダー・フレミングによるペニシリンの発見は1929年、ハワード・フローリーとエルンスト・チェインによるペニシリンの実用化は1940年だった。
抗生物質の普及によって以前のように恐れられる必要はなくなったものの、日本で再び梅毒が急増しているのは、何を暗示しているのだろう。
*参考資料:『江戸の性病』(刈谷春郎著、三一暫房、1993)