人骨をさらし粉で漂白し、新たな人骨芸術の材料に
もともとこの地は、14世紀初頭にインジヒという名の司祭がエルサレムへ巡礼した際に、ゴルゴダの丘の土を持ち帰り、新しい墓地を聖別したために評判となり、遠くはベルギーから裕福層がこの墓地に埋葬される事を希望するようになったという。
14世紀末、ペストによる死者の急増のため、墓地はすでにいっぱいになって納骨堂が建設された。その後、チェコの宗教革命家ヤン・フスの支持者たちによってカトリック修道院は略奪され、詳細な記録は途切れるが、納骨堂はそのまま残る。
1661年および18世紀初頭にも納骨堂内の大量の人骨の模様替えが行われたとされる。そして、1870年代、シュヴァルツェンベルク家がこの修道院を買い取り、この納骨堂を大規模に改装することとなる。
改装を手掛けたフランティシェク・リントは、6つあったピラミッド状の骨塚のうちの2つを解体し、それらの人骨をさらし粉で漂白し、新たな人骨芸術の材料にした。当時すでにパリのカタコンブが話題となっていたので、納骨堂の改装においても大いに参考にしたことだろう。
セドレツ納骨堂が観光地としてもてはやされるようになるのは90年代以降
それでも、20世紀半ばまでセドレツ納骨堂は礼拝に使われる以外、わざわざ訪れるのは人類学者や解剖学者がほとんどであった。そして、専門家である彼らは人骨そのものに興味を持っていたので、その過剰すぎる装飾にはそれほど注意を払わなかったという。
1970年、セドレツ納骨堂改装100年を記念して、チェコの有名な映像作家ヤン・シュワンクマイエルが10分間の映像作品『コスト二ツェ』を製作した。モノクロで細かいカット割で撮影された納骨堂内部は、オドロオドロしい雰囲気が漂うもので、当時の西ヨーロッパの人たちを大いに驚かせたという。
とはいえ、社会主義国であったチェコの観光が自由化されるのは、89年のベルリンの壁崩壊後。セドレツ納骨堂が観光地としてもてはやされるようになるのは、90年代以降のことなのである。
19世紀にシュヴァルツェンベルク家が目論んだセドレツ納骨堂の大衆的な人気や改装を手掛けたフランティシェク・リントの芸術的な情熱は、まさに近年になって、やっと理解され始めているといえる。
そこにチェコのような元社会主義国が持つタイムトリップ感とでもいうべき魅力を感じてしまうのである。
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