歴史的に疥癬は、30年周期で大流行を繰り返してきた。当時は不運にも、ちょうど流行のサイクルにあった。歴史を変えた疥癬物語の一コマといえよう。ちなみに、60年後の1915年には「大正瘡」、90年後の1945年には終戦後の大流行が記録されている。1975年以降は、こうした周期性がなくなり、現在に至るまで流行が潜行し続けている。
松陰と重輔は、地元・柿崎村の名主・平右衛門に自首し、下田で取り調べの後、江戸伝馬町の牢に入れられた。その後、萩の独房で1年2カ月を過ごす間に、松陰は492冊の書物を読み、囚人とともに学んだ。重輔は萩の獄中で病死する。
出獄後に松陰が後を継いだ萩の「松下村塾」からは、明治維新で活躍する門下生・志士を輩出した。松陰は、大老・井伊直弼の命によって、安政6(1859)年10月27日、江戸伝馬町で30歳の若さで斬首刑に処せられる(安政の大獄)。4年後(文久3年)、門下生の高杉晋作、伊藤博文らによって世田谷若林に松陰神社が建てられた。松陰の墓は萩の東光寺にある。下田の柿崎三島神社境内には吉田松陰像が建っている。