連載「病理医があかす、知っておきたい“医療のウラ側”」第6回

「維新の父」吉田松陰が密航を失敗したのは、ある感染症が原因だった!?

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吉田松陰の肖像画(山口県文書館蔵)

 吉田松陰と金子重輔は、嘉永7(1854)年3月18日、蒸気船2隻、帆船2艘からなるペリー艦隊を追って下田に到着する。それぞれ、瓜中万二(かのうちまんじ)、市木公太(いちきこうた)の偽名を使っていた。

 彼らは横浜での乗船に失敗し、下田で再挑戦しようとしていた。3月27日夜半(28日午前2時ごろ)、柿崎弁天下の船着場から漁船を漕ぎ出す。船に櫓杭がなかったため、褌で櫓を縛って漕ぎ、帯まで解いてようやく蒸気船ミシシッピ号に到着した。そして、ペリー提督のいる旗艦ポーハタン号に回された。

 ペリーに直接会って米国への渡航を懇願しようとしたが、就寝中で許されず、通訳で宣教師のサミュエル・ウィリアムズと必死の筆談交渉を行った。このとき松陰が手渡したカタカナのルビがふられた“密書”は、今でも米国エール大学図書館のウィリアムズ家文書に保管されている。

30年周期で大流行を繰り返した伝染性疾患

 松陰と重輔があえなく柿崎海岸にボートで送り返された理由は、日米和親条約を横浜で3月3日に結んだばかりなのに相手国の法律を破るのはまずい、とウィリアムズが判断したためといわれている。

 だが、実際は、松陰と重輔がともに疥癬(かいせん)を患っていたことが理由らしい。特に重輔は、ノルウェー疥癬だった可能性がある。そんな伝染性皮膚疾患をもった輩に乗船されては困るというのが本音だったようだ。汗だくでやっとの思いで漕ぎ着いたため、裁着袴(旅行用の袴)をつけていたものの、帯なし状態の2人の皮膚病変はおそらくむき出しだったのだろう。

 松陰は下田に潜んで乗船の機会をうかがう10日間に4回、蓮台寺温泉を訪ねて湯治している。しかし、弱アルカリ泉のこの温泉のお湯は、疥癬の治療効果がなかった。松陰は、恩師・佐久間象山から伝授されたイオウ散を治療薬として携えていたらしい。

30年周期で大流行を繰り返してきた疥癬

堤寛(つつみ・ゆたか)

藤田保健衛生大学医学部第一病理学教授。慶應義塾大学医学部卒、同大学大学院(病理系)修了。東海大学医学部に21年間在籍し、2001年から現職。「患者さんに顔のみえる病理医」をモットーに、病理の立場から積極的に情報を発信。患者会NPO法人ぴあサポートわかば会とともに、がん患者の自立を支援。趣味はオーボエ演奏、日本病理医フィルハーモニー(JPP)団長。著書に『病理医があかす タチのいいがん』(双葉社)、『病院でもらう病気で死ぬな』(角川新書)、『父たちの大東亜戦争』(幻冬舎ルネッサンス)、『完全病理学各論(全12巻)』(学際企画)など。

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