西郷隆盛は1877(明治10)年9月24日、西南の役で自害。享年51。(shutterstock.com)
徳川幕府の倒幕の大立者、明治維新の推進役といえば、何人もの多士済々の名が浮かぶ。だが、堅苦しい歴史学的な見立てではなく、庶民の人気や好感度から言えば、この二人に絞られる。「西郷(せご)どん」こと西郷隆盛と坂本龍馬だ。
今回は、西郷隆盛の傑物ぶり、その生と死の真実に肉薄してみよう。
ケンカの重傷で武芸の道を断念!ひたすら勉学した少年時代
大久保利通、木戸孝允と並ぶ「維新の三傑」と評価される西郷だが、幕末から明治を跨ぐ天地動乱の荒波をもろに冠った51年の生涯だった。
1828(文政10)年、西郷吉之助隆盛は、鹿児島市加治屋町に下級藩士の長男として産声を上げる。11歳の時、ケンカの仲裁に入り右腕を刀で切られて骨折。その傷の後遺症で肘が曲がり、刀が握れなくなったため、武芸の道を断念し、学問に励んだ。
16歳で年貢の徴収などに携わる郡方書役助(こうりかたかきやくたすけ)に着任すると、郡奉行の迫田利済(さこたとしなり)の「国の根本は農民」という信条に感銘を受け、薩摩藩主・島津斉彬に重用される。
斉彬が急死すると、殉死を覚悟するが、清水寺住職・月照(げっしょう)に説得され、斉彬の遺志を継ぐことを決意。安政の大獄で月照の身に危険が迫り、月照が追放を命じられるや否や、藩に失望した西郷は月照とともに厳冬の錦江湾に投身自殺を図る。
しかし、西郷だけが救出され、一時、奄美大島へ潜伏。後に大久保らの尽力で帰還した。だが、斉彬の跡目を継いだ弟の藩主・島津久光との不和が深まり、徳之島や沖永良部島へ流される。
フィラリア感染症から象皮病を併発、陰嚢が肥大化
沖永良部島での獄舎生活は、衛生環境や栄養状態も悪く凄惨を極めた。身長179cm、体重108kgの巨漢も、見る影もないほどに痩せこけた。しかも、バンクロフト糸状虫という寄生虫に侵され、リンパ系に大きなダメージを受ける風土病・フィラリア感染症を発症。その後遺症から、皮膚や皮下組織が象の皮膚のように硬くなる象皮病を併発し、肥大化したカボチャ大の陰嚢水腫に苦しんだ。晩年は、陰嚢がじゃまになって馬に乗れなくなり、駕篭に乗っていたという、まことしやかな風説がある。
その後、配流を赦免された西郷の活躍はめざましい。
第一次長州征伐の平和的な解決を皮切りに、1866(慶応2)年、坂本龍馬の斡旋で長州藩士・桂小五郎と薩薩同盟の密約を成立させる。大政奉還の推進、鳥羽・伏見の戦いの勝利、勝海舟との会談後の江戸城無血開城に続き、戊辰戦争に参戦。参議としては廃藩置県や学制の制定などの内政改革を主導、陸軍大将としては軍政を刷新するなど、明治維新後の政治の大舞台は西郷の遠心力なしには回らなくなった。
肥満に悩みつつ、ひまし油を飲み、ダイエットも試みた晩年
だが、難局が訪れる。朝鮮の国交回復問題で、西郷は板垣退助が主張する兵隊派遣に強く反対し、平和的な遣韓大使の派遣を主張する。しかし、大久保利通や岩倉具視らと対立して下野。故郷・鹿児島に戻り、私学校での教育に専念する。
郷土の名産・黒豚料理や甘い物が大好物の西郷は、陸軍中将・高島鞆之助の証言によると、肥満に悩んでいたフシがある。1871(明治4)年に来日したドイツ人軍医のテオドール・ホフマンの減量治療を受けながら、下剤(便秘薬)のひまし油を飲んだり、狩猟に出かけて運動に精を出したという記録がある。
ひまし油は、トウダイグサ科のトウゴマの種子から採取する植物油だ。その薬剤効果が働いて、便秘の不快な症状を和らげたり、一時的に滞留便の排泄に効いたかもしれない。しかし、肥満の解消も、ダイエット効果も、今ひとつだったようだ。