日本人の「米食」の嗜好のルーツは豊臣秀吉にある?(depositphotos.com)
糖質制限が普及してきて外食産業もその動きにしっかり乗ってき始めました。
2017年の夏の驚きは、回転ずしチェーンの「くら寿司」が「低糖質にぎり」を販売し始めたことですね。酢飯の代わりに酢大根を使った握り寿司(?)です。「そこまでして寿司が食べたいの?」って思ったのですが、食べた人たちのSNSでの発言は軒並み高評価でした。
子供のころからお寿司はご馳走の代名詞みたいなものだし、みんな好きですよねえ。世界的にも「SUSHI」で通じますからね。
さて、今日はそんな「糖質の塊」のお寿司を私たちがこよなく愛するようになったのは豊臣秀吉のせいかもしれないというお話です。話は織田信長から始まります――。
織田信長は銭の力で全国統一を目指した
戦国時代初期から半ば過ぎまで、国力を決めるのは国土の、それも水田や畑の広さでした。広ければ広いほどたくさんの穀物が取れて、たくさんの人間(=兵力)を養えるからです。
織田信長の父親の織田信秀は尾張という小さな国の国主でしたが、例外的にどんどん伸し上がってきました。尾張に住む津島商人たちの商売を活発にさせて、農作物ではなくて銭の力で軍備・人員を増強したからです。尾張という地勢が商売に向いていたからだけでなく、信秀の才覚によるものだったのでしょう。
信秀の銭の力見て育った信長は、東海地方最強の今川義元軍の侵攻を受け、それを防ぐために桶狭間で奇襲をかけて成功します。これにより織田信長は津島商人以外の商人たちの財力をも利用できるようになり、全国に勢力を展開していきます。
しかし、全国展開すればするほど人手が要りますし、軍備も人件費もかさみます。困ったことに銭の力は、織田家の勢力が広がれば広がるほど足りなくなりました。というのも、尾張などの商売の中心地になら潤沢に存在した貨幣が、地方での流通量はわずかばかり、征服してもほとんど手に入りません。
結局、信長は配下の武将に十分な報酬を与えられず、次第に部下から恨まれるようになります。そして本能寺で謀反に遭い、この世を去ります(明智光秀の謀反に関しては諸説ありますが、とりあえず)。
秀吉は米を貨幣の代わりに流通させることを思いついた
信長の後を継いだ豊臣秀吉が行った全国規模の施策の中に「太閤検地」というものがあったのを覚えておいででしょうか? 豊臣秀吉は全国統一が進むのに合わせて、徹底的に農産物の生産状況を把握していきます。これにより全国の米や特産品の生産状況を常に把握し、堺の商人たちと結託して農産物で稼ぐという収入確保を目指します。
もちろん秀吉以前にも、米は大事な年貢であり、兵隊を養う財産でもありましたが、秀吉は全国規模でこれを管理することにより、豊作のところで安く買いつけて不作のところで高く売るという利潤確保を見出したのです。これにより、貨幣流通量の少ない地方国を抑えた後も、そこからたくさんの収入を得ることができました。白米の価値がものすごく上がったのがこの時だと考えます。
私は自分のブログの読者さんに教えてもらったのですが、班田収授法に記載された租庸調の納税の場合の米の納税に当たる「租」は、生産量の3%を納めるというものでした。それに対して秀吉の時代以降は米の生産量の半分を年貢として差し出させるというとんでもないものに化けていきます。お米の価値は貨幣に等しくなったのです。