今年の春に行われた第29回日本医学会総会2015関西(写真は会場となった国立京都国際会館のHPより)
1902(明治35)年に発足した日本医学会は、日本医師会の下に設置された学術研究学会だ。「医学に関する科学および技術の研究促進を図り、医学および医療の水準の向上に寄与する」ことをめざして、総会やシンポジウムの開催、会員への情報支援を行い、学会の適正な運営を図っている。
その傘下には、会員10万人以上を擁する日本内科学会を皮切りに、日本癌学会、日本肺癌学会、日本胃癌学会、日本循環器学会、日本アレルギー学会、日本肝臓学会など、122もの分科会がひしめき合う。しかも、各分科会に多種・多領域の研究会が混在するため、正確な実態は掌握できない。
巨大化・複雑化する日本医学会のプレゼンスは、医師にも患者にも社会にも、様々な課題を投げかける。何が問題なのか?
122もの分科会を抱える日本医学会が抱える数々の問題
第1に、医学会はどのように作られ、なぜ会員は増えるのか? 典型的なのは、大学教授が自分の専門領域の研究会をまずスタートさせ、会員が一定数に達すると、分科会を立ち上げるパターンだ。
分科会は、会員数が増加すればするほど、製薬会社との互恵関係が深まり、医薬品の販促の役割を担いつつ、学会の理事長や理事を務める教授らの政治的・財政的な利権を生む。つまり分科会は、臨床研究のステージでありながら、大学教授の利権や専門分野への覇権を強めるステージに成り下がっている。したがって分科会は、雨後の筍のように飽くことなく自然増殖していくのだ。
第2に、医学会は医師や患者のために役立っているのか? 生命科学や医学の目覚ましい進歩は、医療の専門化や高度化を日々強めている。医学会の会員である大学病院の医師は、学会での発表数が医局員の評価に直結するため、臨床時間や生活時間をカットしてでも、できるだけ最新の技術やエビデンスを加味した研究発表に努めつつ、医学会に参加せざるを得ない。
大学病院の医師が所属する分科会は、1人平均10学会。参加する分科会の数が多すぎるので、時空間的・経済的にも、精神的・肉体的にも多大な負担になる。その結果、研究発表のクオリティは低下することになり、タイトルだけを変えた論文を複数の学会で使い回しするという愚行を犯す。それが、分科会の研究発表に忙殺され、振り回されている医師の実態だ。そのツケは、患者の診療時間の短縮や治療機会の喪失につながる。まさに本末転倒だ。
第3に、専門医制度は、医師の足枷(あしかせ)ではないのか? 各分科会は独自に専門医資格を作ったため、専門医が急増した。専門医は5年に1度の更新が義務づけられている。専門医を標榜するためには、毎年、学会に出席し、専門医の申請に必要な更新クレジットを獲得しなければならない。しかも医局勤務の医師は、ステイタスになる専門医資格がなければ、医局勤務に支障を来す。専門医制度は、医師の足枷、手枷そのものだ。
第4に、分科会は研究発表のステージとして最適なのか? 分科会で発表される研究テーマの重複や過剰なポスター発表は、情報の希少性や伝達効率の面からも改善が必要だ。しかも、理化学研究所や国立教育政策研究所をはじめ、大学付属の研究所や研究グループが開催する会議に参加できる機会も少なくない。多忙をかいくぐって参加する医師なら、分科会が研究発表のステージとして最もふさわしいかどうかを考えざるを得ない。
第5に、分科会は必要なのか? 医学会に属する分科会を客観的に評価する仕組みはない。学会誌に掲載された論文のクオリティによって学会を評価する慣習もない。掲載論文を世界の研究者が引用する事例はほとんどない。さらには、臨床研究の公正性や透明性を確保するために、日本医学会が定めた「利益相反(COI)マネージメントに関するガイドライン」はあるが、分科会の組織形態や運営に対する強制力はない。つまり、社会的なセクターとしての分科会は、公益的にも学術的にも存在意義や貢献度が深く問われることはない。