公務員だった武士も介護休業を取得
介護を担うのは女性と、長い間、当然のように思われてきた。だから男性が介護をする場合、わざわざ「男の介護」と表現することが多い。介護をする人の3分の1が男性になっても、これはかわっていない。
しかし、これまで介護をする男性がいなかったわけではなかった。介護体験記の多くは、圧倒的に男性の手によって記されている。配偶者や親の介護を担った有名識者が、「デキる男」のお手本としてもてはやされたこともあった。が、それは何も最近はじまった話ではないらしい。
故郷の祖母の介護のために休業届けを出した孫がいた。前例があるからと認められ、孫は帰郷したという。これは、なんと江戸時代、京都の亀山藩(現・京都府亀岡市)の話だ。『京都府立総合資料だより』(2005年10月1日発行)に同館・山田洋一さんが「武士の介護休業制度」として紹介している。文政3(1820)年、京火消詰責任者代役として赴任していた及川源兵衛広之の勤番日記に記されていたという。
京火消詰とは幕府命による京都の消防のお役目だ。祖母が病気で倒れたが、命あるうちに、しばらくでも看病したく何卒お許しを、という願いが出た。さらに前例を探ると、数年前に江戸詰めの藩士が大病を患った祖母の看病のために帰郷を許されたこともわかった。200年も前のことだ。
各藩であった介護休暇
武士が介護する。男性介護者の先駆けだが、亀山藩だけでなく江戸時代では珍しいことではなかったようだ。歴史家・柳谷慶子さんが書いた『江戸時代の老いと看取り』(山川出版社)によると、近代以前では家長たる男性には介護の役割が至極日常化されていたのだという。
育児や介護という家族のケアの主要な責任は父親にあったこと、そのことが制度化され男性や父親の地位や威厳にも連なっていたのだという。武家の介護教育なるものを貝原益軒の『養生訓』、林子平の『父兄訓』等から説き起こしている。
精神論だけでなく、休業して介護する制度も進んでいたというから驚きだ。幕府では「看病断」と言ったが、諸藩では「看病引」「看病願」「付添御断」「看病不参」、休暇は「看病暇」「介抱暇」などと呼ばれていた。
諸藩の資料や武士の残した日記には、お固い武士のイメージからはほど遠い実例が並ぶ。自身の公務よりも祖母の病気を見守る責任を優先させ欠勤した八戸藩の上級藩士、病状が悪化した老母に付き添うため上洛の随伴を断った常陸国下妻藩藩士など。当時も、眉をひそめる向きもあったろうが、何とも微笑ましく、うらやましくもある労働環境である。
男たちが介護現場から排除され、撤退したのはいつの頃からだろうか。先の柳谷さんは、『介護と家族』(比較家族学会監修)のなかで次のように論じている。
「現代の日本で女性がもっぱら介護を担っている状況というのは、まさに近代以降の歴史の所作に他ならない」。つまり、「富国強兵」を担う男性、「良妻賢母」の女性と役割分担が決められたのだ。
介護を行う男性の再来を江戸時代の武士が見たらどう思うだろうか。「無論、男子の心得なり」と言ってくれるだろうか。