「顔が割れなかった斎藤一」の写真が初めて見つかる
斎藤一は「顔」がなかった。だがしかし、2016(平成28)年に初めて、彼の写真が発見される(「日本経済新聞」2016年7月15日)。関係者宅の蔵を整理した時に見つかった2枚の写真を、次男の子孫に当たる藤田家が公表。斎藤が54歳の1897(明治30)年に、妻の時尾、息子二人と撮影したポートレート。「これが死線くぐった目だ」と物議をかもしている。
没後103年。前述のように「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と畏怖される。沖田総司、永倉新八と居並ぶ新選組の豪腕剣士として伝説化される斎藤一とは、いったい何者だったのか?
数知れない歴戦逸話や剣技美談の陰で、幾重にも折り重なる出自の謎、暗殺疑惑、粛清嫌疑の暗雲。惨劇と鮮血の轍。同志隊員の横死を横目に見つつ、幾多の先陣を切り抜け、戦死することなく幕末、明治、大正を生き存えた宿業の執念。史実の激流に呑み込まれつつも、闘魂伝説の闇に葬られた71年の剣劇人生!
旗本の殺戮と逃亡、大坂力士との乱闘、長州藩の間者や脱走隊員の大粛清、天満屋事件の惨殺、戊辰戦争の死闘で猛剣を振るった歴戦猛者。戦後は警部、大学の守衛や庶務掛兼会計掛にも就き、汗して勤労する。
司馬遼太郎は『新選組血風録』に隊士の粛清役、暗殺の請負人を淡々と描く。小説や映画の『壬生義士伝』は「ふさふさとした眉、目つき鋭く、炯々とした背の高い男」の怪奇な横顔を追う。漫画や映画の『るろうに剣心』は御一新の明治時代に警視庁で一心に働く藤田五郎を活躍させる。
最初の名前は山口一。京都に潜伏した時は斎藤一。24歳になれば山口二郎。戊辰戦争の時は一瀬伝八。斗南藩に移住する直前は、妻の高木時尾の母方の姓を借り、藤田五郎と名乗る。
名前に数字を折り込み、変名、改名を繰り返す不可思議。本名(諱:忌み名)を名乗ることで霊的人格を差配されるとする実名敬避のジンクスを死守しようと、本名を巧みに使い分けながら武士の本願を貫こうとしたのか?
かの「七つの顔の男」多羅尾伴内も真っ青の多重人格者か? 怪奇異能、冷徹寡黙のポーカーフェイスか? 斎藤一は何も語らない。
(文=佐藤博)
●参考文献
赤間倭子『新選組・斎藤一の謎』新人物往来社、『剣の達人111人データファイル』新人物往来社、伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』KTC中央出版、菊地明『新選組の真実』PHP研究所、戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』光文社、『新聞集成明治編年史 第三巻』林泉社、堂本昭彦『中山博道有信館』島津書房、荻原勝『定年制の歴史』日本労働協会、、日本消化器病学会(http://www.jsge.or.jp/citizen/2005/37kanto.html)
佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。