1897年に撮影された藤田五郎(斎藤一)のポートレート(写真はWikipediaより)(depositphotos.com)
「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と畏怖され、撃剣師範や三番隊組長で気を吐いた新選組の豪腕剣士といえば斎藤一だ。幕末きっての最強剣客、冷酷非情の刺客、暗殺粛清の請負人(スナイパー)、極悪非道の人斬り、俊敏速攻の豪剣、左利きの孤高なダークアウトローなどと喧伝され、伝説化される。
そんな斎藤一とは何者だったのか?
享年71で胃潰瘍で病没した新選組の豪腕剣士
1844(天保15)年1月1日、斎藤一は、江戸(播磨国?)に父・山口右助、母・ますの三子として生誕する。1月1日生まれが一(はじめ)の由来ともいわれる。
19歳の時、江戸・小石川関口で口論した旗本を惨殺、京都の剣術道場・吉田道場に逃亡し師範代に。そして、1863(文久3)年3月、芹沢鴨、近藤勇ら13名が「新選組」の前身となる「壬生浪士組」を旗揚げ。斎藤ら11人が入隊し、京都守護職の会津藩主・松平容保の預かりとなる。斎藤は若年ながら副長助勤に抜擢され、後に三番隊組長、撃剣師範も兼務した。
斎藤が20歳の1864(元治元)年6月、「池田屋事件」で土方歳三らと斬り込む。この時期、組内部の粛清役を一手に請負うことになる。長州藩の間者(スパイ)とされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与するが、真相は不明だ。
23歳、1867(慶応3)年3月、伊東甲子太郎が「御陵衛士」を結成して新選組を離脱。斎藤は間者となり御陵衛士に密かに潜入。新選組に復帰する時は、御陵衛士の活動資金を盗み、「金欲しさに逃走した」と巧みにカモフラージュ。新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した「油小路事件」は、斎藤の内偵情報を悪用して起きる。
また同年12月には、紀州藩藩士・三浦休太郎を警護中、酒宴を開いた天満屋で海援隊・陸援隊の隊員16人の急襲に遭遇。宮川信吉らが死亡、梅戸勝之進が重傷。斎藤は鎖帷子(くさりかたびら)を着て難を逃れた。
24歳、将軍・徳川慶喜の大政奉還(11月9日)後、1868(慶応4)年1月に戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いに参戦し敗走。3月に近藤勇が流山で新政府軍に投降後、新選組は会津藩の指揮下に入る。白河口の戦い、母成峠の戦いを連戦するが敗戦し、土方歳三は庄内へ、斎藤は会津に残留し会津藩士と薩長の新政府軍に抵抗する。同年9月に会津藩が降伏後も戦い続けたが、松平容保の使者の説得で投降。越後高田に下り謹慎する。
25歳、会津藩は降伏後に改易され、会津松平家は家名断絶になるが、下北半島に斗南藩の再興を許され、斎藤も斗南藩士となり五戸に赴く。移住後、飯盛山で自刃した白虎隊士の篠田儀三郎の遠縁にあたる篠田やそと結婚したが、その後、離別している。
30歳、1874(明治7)年3月、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚。氏名を藤田五郎に改名する。時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄を授かっている。同年7月、東京に移住し警視庁に入庁する。
34歳、1877(明治10)年2月、九州で士族反乱の西南戦争が勃発。内務省警視局の警部補に昇任した藤田五郎(斎藤一)は、5月、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長の大義を負いつつ、西南戦争に参戦。敵弾で負傷する。
35歳、戦後の1879(明治12)年10月、参戦の功績が認められ政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与。37歳、警視庁の巡査部長に昇進。その後、警部補や麻布警察署詰外勤警部を歴任。48歳、1892(明治25)年12月に退職。50歳で東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守(守衛長)に就任。撃剣師範を務め、学生に撃剣を教える。1899(明治32)年、55歳で退職。その後は東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛に。好爺と慕われ、生徒の登下校時の交通整理も行ったという。65歳、1909(明治42)年に退職……。
その後の来歴は詳らかでない。1915(大正4)年9月28日、東京都本郷区真砂町で胃潰瘍のため逝去との記録が残っている。享年71。墓所は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。