NHKは大河ドラマ『真田丸』で主人公・真田信繁を演じた堺雅人さん(画像は公式HPより)
10月28日、NHKは大河ドラマ『真田丸』(脚本:三谷幸喜)がクランクアップしたと発表した。戦国時代の名将・真田信繁(幸村)が主人公の『真田丸』は、真田家を一艘(そう)の舟になぞらえ、真田家三代が戦国の荒波に揉まれながら、難関を乗り越えていく男たちの感動ドラマだ。
幸村を主演している堺雅人さんは「風任せ、潮任せで動いてきた私に1年2カ月という長い旅でしか見えない景色を見せてくれた三谷幸喜さん(脚本)に感謝している。本当に楽しい船旅だった」とコメント。『真田丸』の最終回は12月18日の放送だ。
否が応でも盛り上がりを見せるクライマックスが間近に迫る今、これまで番組を見ていなかった人でも楽しめるよう、真田信繁の生涯を振り返っておこう。
滝川一益、上杉景勝、豊臣秀吉……思春期は「人質」としてのたらい回し
真田信繁(幸村)は、1567(永禄10)年、信濃国(長野県)に生を受ける。父は真田昌幸、母は山手殿。兄・信幸は源三郎、次男・信繁は源二郎と称した。
信繁の祖父・幸綱は、甲斐国(山梨県)の武田信玄に帰依し、伯父・信綱は越後国(新潟県)の上杉謙信との抗争で大奮闘。父・昌幸は、1575(天正3)年の長篠の戦いで長兄と次兄が戦死したため、真田氏を引き継ぎ、上田城主となる。
1582(天正10)年3月、織田・徳川連合軍が武田勝頼を滅ぼすと、昌幸は織田信長に恭順を示し、上野国(群馬県)吾妻郡などの所領を与えられる。だが、15歳の信繁は、関東管領・滝川一益の人質に取られる。
1585(天正13)年、昌幸は上杉景勝に帰依し、第一次上田合戦で徳川家康と戦う。18歳の信繁は上杉氏の人質となるが、昌幸が織田家臣の豊臣秀吉に服したため、信繁は人質として大坂城へ。後に大谷吉継の娘・竹林院を正妻に迎える。1590(天正18)年、23歳の時、秀吉の小田原攻めで功を挙げるや、伏見城の普請役を一任され、大坂や伏見に大屋敷を構え、大名の地歩を固める。
1598(慶長3)年、秀吉が死亡。1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦いが勃発。33歳を迎えた信繁は父・昌幸と共に石田三成の西軍に加勢。本多忠勝の娘・小松殿を正室に迎えていた兄・信幸は東軍に付いたため、真田兄弟は袂を分つ運命になる。
死罪を免れた昌幸と信繁は高野山・九度山に配蟄居となるが……
東軍の徳川秀忠(家康の三男)の軍勢3万8000余は、上田城を包囲。昌幸と信繁は居城に立て籠りつつも猛反撃。秀忠は攻略を諦めて退却。信繁は上田城の動きを監視していた海津城将・森忠政に夜討ち朝駆けを仕掛け、陽動作戦に出る。だが、9月15日、小早川秀秋の寝返りで西軍が完敗を喫すると、死罪を免れた昌幸と信繁は、高野山の九度山に配流・蟄居となる。
1611(慶長16)年、昌幸が享年65で死去。翌1612(慶長17)年、信繁は44歳で出家、好白と名乗る。やがて方広寺鐘銘事件(国家安康 君臣豊楽)を発端に徳川氏と豊臣氏の確執が深まり、暗雲が立ちこめる。
信繁は、秀吉の旧恩に報いるべく、上田城に控える旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を密かに脱出。嫡男・幸昌(大助)と共に大坂城に入る。
老獪な家康の懐柔策を一蹴、豊臣秀頼への忠誠を誓った信繁の不屈不撓の武将魂!
1614(慶長19)年11月の大坂冬の陣が迫る――。信繁は、大坂城の南天王寺口外堀の小高い丘に半円形の砦・真田丸を築き、立て籠る。徳川勢は争って真田丸に突進するものの、信繁の応戦に屈して敗走。家康は、淀君に和睦を申し入れ、講和が成立するや否や真田丸を取り壊し、豊臣方の弱体化を謀る。
翌1615(慶長20)年2月、家康は「信州で十万石下さるべく候」「信濃一国を与えられるべく候」と提案。信繁に寝返るように懐柔する。
ところが信繁は、「十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか(10万石くらいの恩賞なら豊臣家を裏切らないが、信濃一国なら豊臣家を裏切るような男と思われるのか)。秀頼殿の恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか」と家康を一蹴する。