死体の浮上を決めるのは水深と水温
さて、太宰が水死した玉川上水は、1653(承応2)年、江戸の飲料水不足を解消するために多摩川から水を引く掘削工事によって完成した人口の川だ。多摩の羽村から四谷までの全長43km。現在は小川だが、太宰が情死した当時は、雨が降れば川幅4m、深さ2mに増水し、流速と水深のある危険な河川。昭和23年の入水自殺者は太宰が16人目だったという。開削後300年。川底には無数の穴があるため、水死体は見つかりにくかった。
入水後6日目、太宰と富栄の水死体が上がったのはなぜか?
死体が上がる日数は、川の水深と水温によって決まる。水深7m以下の河川の水温と死体浮上に要する期間は、10℃で2週間、15℃で1週間、20℃で4日、25℃で2日とされる。太宰と富栄の水死体が入水後6日後に上がったのは、川の水温が15〜20℃前後だった可能性が高い。
警察官は職業柄とはいえ、さまざまな死体と向き合わざるを得ない。海の警察官の海上保安官も水死体に遭遇する確率が高い。長期間、海上を漂流していた水死体は、他の水死体と異なる特徴がある。
たとえば、水死体の皮膚は、漂母皮(ひょうぼひ)と呼ばれ、ふやけているため、指紋の採取が困難になる。ふやけた漂母皮の指紋は、指先に水を注入して形を整えてから採取するが、指先の皮膚を切り取って捜査員の指にかぶせて指紋を取る場合もあるらしい。また、水死体の手や足の皮膚が手袋や靴下のように脱落して剥がれてしまう蟬脱(せんだつ)という現象もおきやすい。このような場合は、指紋から身元を洗い出すのは極めて難しい。
太宰の情死事件からおよそ70年。妻・美知子に宛てた遺書に「誰よりも愛していました。小説を書くのが嫌になったから死ぬのです」とある。小説の行き詰まりへの深い苦悩、体調の不調や病苦、愛人・富栄の自殺強要など、入水心中の原因は諸説ある。無理心中説もあるが、憶測の域を出ない。
太宰の富栄への口説き文句は「死ぬ気で恋愛してみないか」だった。富栄が太宰の妻に宛てた遺書に「修治さんはお弱いかたなので、貴女やわたしやその他の人達にまでおつくし出来ないのです。わたしは修治さんが、好きなのでご一緒に死にます」とある。
今日も、玉川上水は何も知らないかのように静かに流れる。
佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。