2度の幸運と偶然が「ペニシリン」発見の奇跡を引き寄せる
世界初の抗菌物質を発見する好機に恵まれるのは、まさに奇跡。天がフレミングに授けた恩寵ではないだろうか。しかし「好事魔多し」というようにペニシリンも多難な前途を迎える。
フレミングは、ペニシリンが白血球を破壊せず、無害であると気づき、医薬品の有効性を探るが、断念せざるを得ないと知る。ペニシリンは、化学的に不安定であるため、濃縮・精製も長期間の保存も困難だったため、実験用試薬の利用に活路を見出す。
ペニシリンの抗菌作用は、炭素原子3つと窒素原子1つから成る「βラクタム」の働きによって生まれる。だがβラクタムは極めて珍しい構造のため、化学的に不安定になり、細菌に反応しやすい。βラクタムは高い反応性があるため、細菌の細胞壁を作る酵素にとりつくと細菌の防御機能を阻害する。
これがペニシリンの抗菌作用の優れたメカニズムだが、「不安定性」という大きな壁に阻まれているのは避けられない。フレミングの失望は深まるが、またまた好機が天から舞い降りて来る――。
発見から10年後の1938年、オックスフォード大学のハワード・フローリーとエルンスト・チェインは、フレミングのペニシリンの論文に感嘆し研究を進める。2人は有機溶媒と酸またはアルカリ水溶液を活用しつつ、不安定なペニシリン分子を損なわずに濃縮する技術を確立。1940年、およそ100mgのペニシリン粉末の精製に着手し、動物実験に成功。1941年、ヒトの臨床試験をスタートし、黄色ブドウ球菌や連鎖球菌に感染した人々を救命するに至る。
太平洋戦争が勃発するや、傷病兵士の感染を防ぐペニシリンの医薬品開発が加速。1942年、米英はペニシリン研究を「最上位の国家機密」に指定。投入された研究資金は総計2400万ドル(25兆4400万円)に上る。原爆開発を進めた「マンハッタン計画」に次ぐ予算規模だ。ペニシリンの量産によって、「奇跡の薬」の実績と名声は世界を席巻する。
1944年6月の「史上最大のノルマンディー上陸作戦」では、ペニシリンが夥しい戦傷者をガス壊疽や敗血症から救い、故国へ生還させる。そして1945年、フレミング、フローリー、チェインの3名は、共同でノーベル生理学・医学賞を受賞。ペニシリンは、量産開始からわずか数年間で世界の感染症治療の歴史を塗り変えたのだ。
1955年、偶然と幸運が引き寄せた「奇跡の抗生物質」の生みの親であるフレミングは、心臓発作のためロンドンの自宅で逝去。享年73。ロンドンセント・ポール大聖堂に永眠している。ペニシリンを発見したシャーレは、雑菌が混入しないように保護され、大英博物館に展示され、フレミングの実験室は、セントメアリー病院内に保存されている。まさに医療遺産だ。