写真左下がゲバラの墓標(撮影:西牟田靖)
チェ・ゲバラが亡くなった1967年10月9日から、今年でちょうど50年になる。
ゲバラといえばフィデル・カストロらとともにゲリラ戦を戦った末、キューバ革命を完成させた伝説的な人物だ。そんなゲバラは39歳でボリビアの山中で客死している。亡くなったことは確認されたが、その後、遺体のありかは30年間にわたって、わからなくなってしまった。
彼はなぜボリビアの山中で亡くなったのか? そして、なぜ30年も経ってから、彼の遺骨は発見されたのか——。
1967年10月、ボリビアで拘束され銃殺
1959年、革命が成立した後に、ゲバラはカストロらとともにキューバ政府の中枢を担うことになる。その当時、大臣を経験したり日本を訪れたりしたが、そうした安定は長く続かなかった。冷戦の真っただ中、彼はキューバ政府での地位や家族との暮らしをなげうって、革命の旅に出たからだ。
彼が命を落とすことになる南米ボリビアへ渡ったのは1966年11月。目的は南米全体の革命を目指すため。そのためには大陸の中央に位置するボリビアが最適だと彼は思ったのだ。
ゲバラは部隊を率いてゲリラ戦を行った。しかし、キューバのように農民たちの支持は広がっていかなかった。食糧は足らず、飢えにも悩まされた。そして次第に、ボリビアの特殊部隊らによって追い詰められていく……。
当時、ボリビアは、アメリカの傀儡国家だった。そのため、ボリビアの特殊部隊は、アメリカのCIAによって訓練されていたのだ。
1967年10月8日、ボリビアの南東部にある2000メートルを超える渓谷で挟み撃ちにされたゲバラは脛を撃たれ、あえなく拘束されてしまった。しかし、すぐには殺されず、そのままヘリコプターで近くにあるイゲラ村へ運ばれた。そして教室が2つしかない平屋の校舎に、両手両足を結ばれた状態で監禁される。
ゲバラは銃殺をためらう兵士に向かって「おい、撃て、恐れるな」と叫んだという。ゲバラの強い気持ちに圧倒された兵士は、なかなか撃てず、致命傷を外したまま教室の外に出ようとした。
しかし、仲間の兵士たちから「意気地なし」となじられ、奮起した末にさらに2発、首筋と胸に銃弾を撃ち込んだ。それでもまだ絶命していなかったゲバラを、最期は仲間の兵士が至近距離から心臓をめがけて発射し、ようやく殺害に至った。ゲバラの絶命は翌10月9日の午後1時ごろであった。
3時間ほど経った午後4時すぎ、ゲバラの遺体は60kmほど離れたバジェ・グランデという町にヘリで運ばれる。町へ到着すると、彼の遺体は町の病院に安置され、医師による検死や、遺体の一般公開が行われた。と同時に、軍により「8日の戦闘によってチェ・ゲバラは死亡した」と公式発表がなされた。
翌日も病院では、ゲバラの遺体が公開される。国を転覆させようとした外国人のゲバラとはどんな男なのか――。一目見ようと一般市民が大勢が押し寄せた。
公開が終わると、ゲバラは両手を切り落とされ、石膏によってデスマスクを取られた。両腕を切断されたゲバラの遺体は11日未明に運び出され、それ以降、どこにあるのか、公開されることはなかった。