友人のテレビディレクターは冤罪DVで離婚し、子どもと引き離され、そして自殺……
特に男性の場合、典型的なのは暴力(ドメスティックバイオレンス=DV)を振るわれたと相手方に一方的に主張されるケースです。逆に男性が女性に暴力を振るわれていてもそんなことは忖度されません。
「夫にDVを振るわれた」という水戸黄門の印籠のようなものによって、その真偽を問われることなく、「親権は母親」「面会は月1回2時間」などという一方的な裁定により、子どもを奪われてしまうのです。真面目で子煩悩な父親こそ、そのような仕打ちを強いられる傾向が見られました。
そうしたことから、心身ともに追い詰められ、事件に発展するケースも中にはあります。そのひとつが私が同じマスコミ人として尊敬していたテレビディレクターの事件です。
ちょうど私が「わが子に会えない」という問題を週刊誌で取り上げようとしていた3年前の夏、彼は自らの命を絶ってしまいました。私が彼に、話者の一人としてお願いし、断られた直後のことです。彼が亡くなった主因は、子どもと引き離され、冤罪DVを主張されたことだと、関係者から当時、聞きました。
彼の事件を受け、私はよりいっそう使命感を抱きました。わが子に会えないという隠された社会問題を問題提議していかねばと。そして実際、ここ2年半ほどの間、雑誌やウェブサイトに本テーマを記事として事あるごとに取り上げてきました。さらにはそうした積み重ねにより、このたび、このような単著という形で出版することができました。
執筆方法は当事者の「イタコ」になること
この本を書くにあたり、採用する表現手段をどうするかについては、かなり悩みました。いろいろと模索した結果、私は「イタコ」になろうと思いました。「当事者たちの人生を、私の主観を挟まずに淡々と綴る必要がある」と確信するにいたったのです。とはいえ、最初から迷わずその手法を採用したわけではありません。
ある社会問題をテーマ別に章立てしていく、新書や雑誌でよく採用される方法を検討したこともあります。そのような事象別に輪切りにしていくという方法は、問題をひとつかみするには確かに効果的です。
しかし、こうした方法は、被害に遭った人たち一人一人の、個性や人となりを伝えることには向きません。DVの疑いをかけられたり、そのほか大変な思いをしたりした人たちが、どこにでもいる普通の人たちであるということこそが、私の主張したいことでしたので、この方法は却下しました。
「わが子に会えない」という問題は人的災害
イタコ的方法を採用するにあたり、私に決定的な影響を与えた本が2冊あります。
その2冊とは、地下鉄サリン事件被害者のインタビュー集である村上春樹の『アンダーグラウンド』と、原発事故の被害者の言葉をちりばめたスベトラーナ・アレクシエービッチの『チェルノブイリの祈り』です。
この2冊には作者の主観はほとんど挿入されず、独白がひたすらに繰り返されます。どちらも決して読みやすいとは言えず、まどろっこしく思いました。
しかし、読み終わってみると、年齢や性別が違う様々な人たちの人生から、災害という存在が浮かび上がってきたのです。2冊を読むことで私は、この問題を描き出す手法として、イタコ的な手法が向いていると確信しました。
わが子に会えないという問題は、それこそ、日本社会全体に巣食っている、大きな大きな全国規模で起こっている人的災害と言えるかも知れません。
その考えは力みすぎてはないか、それは偏見ではないか――。そのような意見は、本が今後、話題になっていけばいくほど、おそらくたくさん寄せられることでしょう。話題となり、問題が周知されるのなら、炎上は止むを得ません。批判に対し、私は逃げずに引き受けるつもりです。
西牟田靖(にしむた・やすし)
ノンフィクション作家。1970年大阪生まれ。神戸学院大学法学部卒。日本の領土問題や、戦後の植民地・戦地からの引揚問題など、硬派なテーマを取材執筆。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『本で床は抜けるのか』など。