結婚・夫婦・家族のあり方が問われる時代Chutima Chaochaiya / Shutterstock.com
劇作家のオスカー・ワイルド(1854〜1900)は「男は退屈から結婚し、女は好奇心から結婚する。そして双方とも失望する」と言っている。また、文学者のバーナード・ショー(1856〜1950)は「できるだけ早く結婚することは女のビジネス、できるだけ結婚しないことは男のビジネスだ」と、歴史家のトマス・フラー(1608〜1661)は「妻はたえず夫に服従することによって、夫を支配する」と言っている。
なぜ夫婦の愛は冷めやすいのか? この大命題を解くヒント、それは性の多様性(セクシャル・ダイバーシティ)と一夫一婦制にある。
セクシュアリティ、家族、夫婦のあり方がますます深く問われる時代
人間のセクシュアリティ(性のあり方)は実に多様だ。ヒトは生物学的には男性と女性というセックス(生物学的性別)に分けられ、社会的・文化的には男性の役割(男らしさ)と女性の役割(女らしさ)というジェンダー(社会的性別)に分けられる。
体の性、心の性、好きになる性が一致し、男女の異性愛に惹かれる人は、セクシャル・マジョリティ(性的多数者)となる。一方、同性愛、両性愛、無性愛に惹かれる人は、セクシャル・マイノリティ(性的少数者)のLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)となる。
LGBTの権利意識や実態が顕在化するとともに、セクシュアリティ、家族、夫婦のあり方がますます深く問われる時代を迎えている。シングルであれ、既婚であれ、子育て中であれ、恋愛中であれ、失恋中であれ、自分らしく生きることが、かけがえのない生涯価値という真実を疑う人はいないだろう。
ところが、家族の崩壊や夫婦の危機が叫ばれて久しいものの、余りにも日常的な難題のためか、その実態はタブー視され、棚上げされがちだ。
戦前までの日本社会は、性差を根拠にした封建的な階級社会と血縁意識の強い家父長を頂点とする家族制度を根強く温存していた。戦後の民主化や経済成長、栄養改善や医療革新、高学歴や高所得の新風は、日本人の社会意識や価値観を180度、転換させた。
伝統的な一夫一婦制も余波を受ける。夫婦は単に男女の性的ユニットではなく、核家族という社会的ユニットという意識が強まる。この家族の社会化は、特に女性の権利意識の高まり、高学歴、社会進出、機会均等の機運などの追風を受け、妻の生き方、家族の存在価値、夫婦のあり方を変えた。戦後強くなったのは、ストッキングと自由・平等に目覚めた女性だった。
なぜ夫婦の愛は冷めやすいのか?
しかし、特に1990年以降、21世紀を跨ぐ頃から、家族や夫婦を取り巻く社会環境に異変がじわじわと広がる。世界経済の停滞、日本経済の減速、終身雇用や年功序列型賃金の崩壊、成果主義の導入、雇用の流動化や不定期雇用の常態化が夫婦を追いつめる。夫婦の心に断層や亀裂が走り始めた。
夫はハードな仕事に追われ、ストレスと闘っている。妻はキャリアか育児かの二択を迫られ、閉塞感に悩んでいる。疲れ切った夫は安息だけを求めるが、妻は多忙で孤独な育児を理解して欲しいと願う。夫は居心地の悪さに我慢できず、妻は不機嫌な態度を抑え切れない。
一夫一婦制の狭間で、夫は挫折を恐れ、妻は拒絶を恐れる。夫は妻からの理解と信頼を求め、妻は夫からの共感と受容を求める。夫はどう生きるべきかを理詰めで考える左脳人間なので、いつまでも自己成長を目指す。妻はどう生かされるべきかを感情で直感する右脳人間のため、家族の緊密なつながりをひたすら願う。夫婦のすれ違いの溝は深まっていく。
夫婦は一夫一婦制のフレームに縛られたまま、世間体という束縛から逃れられない。世間に対して人並みでありたい、承認されたいと願いながら、夫婦であり続ける。離婚は恥、離縁は罪という固定観念を受入れて耐え忍ぶ。一夫一婦制の手かせ・足かせに苦しみつつ、夫婦は制度と生活実感のジレンマに陥っているように見える。