アルツハイマー病の由来は? (shutterstock.com)
アルツハイマー病と言えば、元米大統領ロナルド・レーガンさん、映画俳優チャールトン・ヘストンさん、日本なら女優の吉田日出子さんや南田洋子さんも闘病した難病だ。
「おまえの世話なんか、とてもしてやれん!」――。夫は乱暴に言い放つなり、妻をフランクフルト・アム・マイン精神病院に押し込んだ。彼女の名はアウグステ・データー、当時51歳。この不幸な夫人が入院しなかったなら、100年に及ぶアルツハイマー病にまつわるロング・ストーリーは生まれなかったかもしれない。
1901年11月26日、神経病理医のアロイス・アルツハイマーは、困惑した表情を浮かべるアウグステ夫人を診察する。「あなたのお名前、アウグステ・データーと書いてください」。だが、書けない。単なる健忘症か書字障害が疑われた。
4年半後の1906年4月8日、アウグステ夫人は56歳で亡くなる。アウグステ夫人の脳はミュンヘン病院の解剖研究室に直ちに送られる。アルツハイマーは、脳の組織を慎重に検死解剖し、カール・ツァイスの実体顕微鏡を覗き込んで綿密に観察した。
その瞬間、驚くべき実像がアルツハイマー目の前に曝け出される。大脳皮質の萎縮、斑状代謝産物の沈着と汚れ、脳血管に動脈硬化性の病変、神経細胞内のもつれた糸のような原線維、線維性グリアやミクログリアの増殖……。
これは前代未聞! 特異な病変の大発見なのか!? アルツハイマーの好奇心は熱く燃えたぎった。
当初は見向きもされなかったアルツハイマーの研究論文
1906年11月、アルツハイマーは研究論文「大脳皮質の特異な疾患について」をまとめ、第37回南西ドイツ精神科医学会で発表する。
『アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡 』(保健同人社)によれば、アウグステ夫人の病態を詳細に報告している。要約してみよう。
アウグステ夫人は、夫に対する病的な嫉妬心から発病したと推察できる。記憶力が著しく低下しているため、ペン、鍵、葉巻などの簡単な名前すらすぐに忘れる。物を引きずり回し、身を隠す。誰かに殺されると妄想している。途方に暮れている時が多く、時間、場所、人間関係を正しく認識できない。
頭が混乱し、せん妄(意識障害)に陥り、シーツをあちこちに引きずりながら、夫や娘の名前を呼び叫ぶ。幻聴に囚われて奇声を発する。常に混乱、不安、恐怖に脅かされている。
文章を一行ずつ一字ずつ区切って読み、意味のないアクセントをつけて読む。同じ音節を何度も繰り返して書き、すぐに急いで消す。質問中や会話中にしばしば沈黙する。躁症状が時に強く、時に弱く現れる。
歩行に支障はなく、手は上手に使える。膝蓋腱反射(しつがいけんはんしゃ)も瞳孔反射も正常。前腕の外側を走る橈骨動脈(とうこつどうみゃく)はやや硬化しているものの、心濁音界(打診によって推定される心臓の境界)の拡大はなく、蛋白尿も診られない。
このような特異な病態を呈しながら、アウグステ夫人は、知能、記憶、見当識の認知障害を日増しに悪化させる。やがて無欲状態に陥り、下肢を屈曲したままベッドで失禁を重ねた末、褥瘡(床ずれ)を起こして死亡した……。
アルツハイマーの症例報告に会場は静まり返る。熱弁だったが、集まった医学会の医師らの反応は至って冷たい。質疑応答も討議もまったく始まらなかったからだ。
アルツハイマーは落胆しつつも、背筋を伸ばして壇上を降りる。新しい知見が常に喝采を浴びるとは限らない。そう悟っていたのかもしれない。
しかし、4年後の1910年、ドイツの精神科医エミール・クレペリンは、この病態をアルツハイマー病と命名し、精神医学の教科書に大きく取り上げる。以来、アルツハイマー型認知症、若年性アルツハイマー病、脳血管性認知症、レビー小体型認知症などの疾患名が確立される大きな足がかりになった。
1912年、アルツハイマーは、48歳でブレスラウ大学の院長と精神科教授を兼任。精神科医としての重責を担いつつ、多くの優秀な弟子を輩出させ、執筆活動も精力的に続けた。
だが、大学へ向かう途上の列車内で体調を崩し、1915年12月19日、黄色ブドウ球菌感染症、リウマチ熱、腎不全、心疾患などの合併症のため、家族に看取られながら永眠。享年51だった。遺体はフランクフルト市立墓地に眠る妻ツェツィリアの隣に埋葬された。