27歳のステージⅢ舌がん闘病記~切らない治療と妊孕性温存、自分らしく生きることについて

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闘病中に公開したウィッシュリストに、沢山の方が参加してくれた この写真に写っているのは、頂戴したもののうち極一部

 これは、20代のうちにステージⅢの舌がんを患った女性が公開する、約1年間の闘病体験記である。
 
 執筆にあたり、特に治療法選択の経緯については、どこまで詳細に立ち入るべきか非常に悩んだ。というのも、今回の経験を通して、医療に関する意思決定に唯一絶対の正解はなく、全ては個々人の死生観次第である、という考えが自身の中に芽生えたからだ。

 詳細を記述することで、むしろそういった考えに反して、「この治療法・先生を選べば助かります」といった内容として受け取られ、その方の思考停止を促してしまうのではないか、という懸念があった。けれども、同時に、特にがん宣告直後の自分にとって、過去に同じ病を克服された方の体験記ほど貴重な情報源はなかった。
 
 特に日本では(諸外国でも状況は変わらないかもしれないが)、大病を患った際に検討しなければならないことや、お医者さんとの付き合い方について、学校で教わったり練習をしたりすることはない。初めてその知識・スキルが必要となったときには、もう本番で、しかも文字通り命が関わっている、やり直しのきかない状況に置かれているのだ。

 そんな中で、かつて同じ難局を乗り越えた先人の体験記は非常に心強かったし、事実から心境まで詳細が記されていればいるほど参考になった。それを踏まえ、闘病中に沢山の方に助けていただいた恩返しの一つとしても、今回は、私が記憶している限りのことを全て綴っていく。
 
 ただし、本題に入る前に、本稿は、舌がん宣告を受けた人が取るべき行動や治療法を指南するために書いたものではない、ということを明記しておく。あくまでも、いち患者の経験をまとめたものであり、本稿を通じて伝えたいことは、「自分らしい生き方に自分で責任を持つ」ことの大切さに他ならない。そしてこのメッセージ自体は、舌がん患者に限らず、社会全体に対して発信する価値のあるものだと信じている。

 忘れもしない、2021年1月25日、27歳の誕生日を迎えた当日の朝のこと。

 「検査の結果、悪性であることが判明しました。腫瘍の大きさからすると、ステージⅢ(T3N0M0)の舌がんです。一応他の部位への転移は認められていませんが、細胞レベルでの転移については、後日受けるPET検査の結果次第です。まだ治療可能な段階です。この場合は手術です。内容としては、舌の半切除と太ももの組織を用いた再建、念の為に首の左側のリンパ郭清も行って、顎の骨も削ります。2月18日にオペをし、そこから1ヶ月程度の入院です。もし、術後に他の部位への転移が発見されたら、放射線と抗がん剤の治療を追加で行います。今日はこのまま入院手続きをしてご帰宅ください」

 都内にある大学病院の歯科口腔外科の診察室で、私は舌がんの宣告を受けた。

 淡々と落ち着いて説明をしてくださる先生と、突然の宣告にうなだれる両親の横で、「やっぱりそうだったか、白黒はっきりしてよかった。治療可能ということだし、あとは治療を受けるだけ」と、私は冷静に事態を受け止めていた。

 それもそのはず、舌の左側奥の違和感は、宣告の1年ほど前からずっと存在していたのだ。違和感を最初に自覚した際に2度、近所の一般歯科に診察してもらっていた。その時の診断はそれぞれ、「炎症でしょう」「奥歯が一本内側に傾いているので、それが舌に当たっているのでしょう。矯正をすれば治ります」だった。

 当時から既に悪性化していたのか、あるいはその時はまだ良性だったのか、今となってはもう確かめようがない。ただひとつ言えることは、もしそのときに、「食べ物を飲み込むときに少しヒリヒリするだけ。痛くもないし、日常生活にも支障をきたさない。そのうちに慣れるだろう」と変に楽観的に捉えたりしないで、セカンドオピニオンとして口腔外科にきちんとかかっていたら、1年後に“闘病”など経験する必要がなかったかもしれない、ということだ。

 そんな私が重い腰を上げて漸く口腔外科にかかったのは、2021年1月8日のことだった。職場で社内の会議が始まる前に、「年末にかけて、舌の痛みがついに凄いスピードで悪化してきて、いよいよ前に歯医者さんに勧められた通り、矯正治療を始めようと思っている」と話していた。すると同僚から、「えっ、それって舌がんの可能性ない?」と一言。

 仕事は多忙を極めていたけれど、睡眠時間は安定して確保・喫煙習慣なし・機会飲酒のみ・適度な運動習慣あり・身内でがんで亡くなった人はいない――このような状況で、それまでの私は一度たりとも、自分が将来がんになるかもしれないと心配したことはなかった。

 生憎当時は、性別・年齢・生活習慣・家族の病歴に関係なく、がんは誰でも罹り得る病気だということを知らなかったのだ。「まさか自分が」と思いつつ、その時初めて耳にした「舌がん」という単語を即座にインターネットで調べてみた。出てくる症状の説明文や写真は、まさに自分が経験しているものと同じだった。

 「がんなんて、そんな大袈裟な」という自分と、「がん以外、この症状は説明がつかなさそうだ」という自分が同時に存在していた。

 同日の午後、慌てて口腔外科治療を得意とする歯医者に向かった。2020年頭にかかった一般歯科とは、また別のところだ。「舌がんの可能性があると思うので、診ていただけませんか」と告げる私に対して、「これは確かに悪性の疑いがある」と、すぐに大学病院で詳細な検査を受けることを勧められた。
 
 そこから2週間で、紹介先の大学病院にて、病理・CT・MRI検査を受けることになった。新型コロナウイルス感染症蔓延のために、診察予約が非常に取りにくい時期ではあったが、どんな予定よりも優先して通院を重ねた。検査を重ねるごとに、先生からは「悪性の可能性が否定できない」という話があり、MRI検査を終えたあとには、「25日に結果が出ますが、その際は可能であれば家族の同席もお願いします」と伝えられた。

 そのような経緯だったので、通院する度に私の中では舌がんの確信が強まっており、宣告を受けたその場では、既にある程度覚悟が決まっていた、というわけである。

 ただし、宣告の場で自分がよく理解していなかったのは、事態の深刻さだった。当時の私は、「治療可能」という言葉を、「手術を受けさえすれば、何の制約もなく、完全に元通りの生活に戻ることができる。舌の違和感がなくなる分、むしろ楽になる」という風に理解していたのだ。

 もちろん、主治医の先生から、「術後、後遺症として多少喋り方が変になるかもしれません」という説明はあった。ただ、「少し舌っ足らずな発音になるぐらいで、問題なく社会生活は送れます。本人がリハビリをどれぐらい頑張るか次第です」とのことで、それほど深刻な感じはしなかった。なので、私の意識は、1日でも早い治療と回復に向かっていた。
 
 病院からの帰り道に、「他の病院も回ったほうがいいのではないか」と不安がる両親を、「今はコロナでどの病院も診察予約が取りにくい。とにかく最速で治療を始める方が大切でしょ、変に動くのはやめよう」となだめていたほどだ。検査の連続で疲れていたため、これ以上頭を使って何かを考えたくない、というのが本音だった。

 宣告の翌日から、冷静さは徐々に失われていった。有り難いことに、自身の状態を知った友人から心配の声が続々と届き、それを受けて改めて、自分でも舌がん患者の方のブログなどに目を通したことがきっかけだった。自分が提示されたものと同じ治療を受けた患者さんの動画も閲覧した。

 そこで漸く理解したことは、手術後の機能障害(嚥下・発話機能の低下)については、社会生活を送ることができたとしても、自身の個性を大きく変えてしまう程度には残るかもしれないということ、そして、手術の傷跡は年月が経っても消えることはなく、時に疼き、がん再発も決して珍しいことではない、ということだった。勿論、再発した場合には追加で手術を行うので、どんどん舌を失っていくことになる。

 「27歳になったばかり。独身で、結婚も出産も未経験。仕事でもプライベートでも、将来やりたいこと・楽しみにしていることが沢山ある。まだまだ長い人生なのに、こんなに若いうちから自分らしく生きられなくなるのは嫌だ。このまま流れに身を任せて治療を始めて、後から後悔することだけは絶対にしたくない」――動揺と混乱が深まる中で、この強い思いが、最後の最後に自分を奮い立たせたように思う。

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2021年1月11日、妹の成人式後に撮影した1枚。傍から見たら、病気の兆候などは全く見受けられないだろう

 そこからは、怒涛の病院と治療法のリサーチを始めた。幸いにも、友人のひとりがすぐに、20代で大腸がんを克服した方と繋げてくれた。その方に真っ先に頂いたのが、「がん治療で一番重要なのは、自分が納得できるかどうか」というアドバイス。実体験と共にお話しいただいた内容が心に響き、そこからは私もなりふり構わず、思いつく限りの医療従事者の友人に連絡を取らせてもらった。

 「どの病院で手術を受けるべきか」ということを聞いて回る中で、「都内ではないが、切らないがん治療で有名な病院も関東には存在する」「舌がんは、手術以外にも放射線治療だけで治るケースがある」という情報が舞い込んできた。治療後の機能障害と大きな傷跡がとにかく気がかりだった私に、一筋の光が差し込んだような気がした。

 「ステージⅢだと、基本的には手術が第一選択になるとは思いますが。うちだと手術しか行ってないですね。セカンドオピニオンを取ってもらっても大丈夫ですよ」――がんの診断をしてくださった口腔外科の先生に、電話口で非手術療法の可能性について少し尋ねてみたところ、このような回答があった。

 患者からセカンドオピニオンを依頼されることを、決して快くは思わないお医者さんが多いという話を友人から聞いており、どう依頼するべきか悩んでいたところ、先生自らこのように提案してくださったことはとても有り難かった。

 それから数日のうちに、紹介状を携え、リサーチで目星をつけた口腔外科を2件、放射線科を2件、それぞれ新規で訪れた。口腔外科はどちらも都内で、どちらの先生からも、「根絶を目指すなら手術一択」と伝えられた。ひとりの先生からは、「放射線治療は、手術に耐える体力のない高齢の患者に対して行うもの」と説明があった。

 もうひとりの先生からは、「どうしても切るのが嫌だというのであれば、自分の娘だったら、一か八かで、超選択的動注化学療法という、放射線と化学療法を組み合わせた治療法に望みを託すかもしれない。神奈川と東北にその治療が可能な病院がある。どっちの治療を選ぶにせよ、茨の道になることには変わりない」と伝えられた。

 放射線科の先生については、ひとりは大阪で実績を上げられている方で、両親と日帰りで訪問した。一通り診察していただいてすぐに、「ステージⅢではあるが、私のところで放射線治療が可能。治療実績は手術と変わらない」と判断してくださった。この時点で、私の気持ちは完全に放射線治療に傾いた。けれどもすぐに、「ただし、コロナで病床数が制限されているので、うちでは治療できるのが最速で3月下旬」という補足。これでは、元々予定している手術から1ヶ月以上遅れることになる。進行が早いとされる口腔がんで、1ヶ月は命取りになるかもしれないことを考慮すると、すぐにまた暗闇に突き落とされた気分だった。

 「なんとか早めていただけないのでしょうか。娘はまだ若いんです」と、母は隣で泣いていた。「都内にも放射線治療で実績を上げている先生はいるようです。その先生の話も聞いてみてください」と先生は仰った。

 翌日、「早期に放射線治療が開始できるという判断になりますように」と祈りながら、都内の放射線科の先生を訪ねた。結局、その先生からは、「うちで治療可能なのはステージⅡまで。ステージⅢ以上だと、リスクが大きすぎる。手術か、最近治療実績が上がっているらしい超選択的動注化学療法を検討する」と伝えられた。絶望の中で、私はいよいよ、手術を受ける覚悟を決めようとしていた。

 けれども最後に、「超選択的動注化学療法を検討する」というふたりの先生の言葉が、どうしても頭の中に残り続けた。実は、リサーチの過程で、たまたま「市民のためのがん治療の会」*に辿り着いており、超選択的動注化学療法を受けた会員の方の体験記を読んでいた。そして、この治療法が自分のケースでも検討可能であるのかどうかを知りたくて、即座に入会希望の問い合わせを行っていた。

市民のためのがん治療の会 http://www.com-info.org/

 代表の會田昭一郎さんからは、翌日すぐに返事を頂いた。セカンドオピニオン取得を始める前のことである。返事の文中には、実際に同治療を行っている伊勢日赤放射線科の不破先生からの見解が記されていて、「添付された資料を読む限りは舌半切で可能ということであり、私としては手術をお勧めします。将来のことを考えますと、手術の方が利点が多いと思います。どうしても切除を拒否ということであれば、(中略)手続きをお願いします」ということだった。「先生自ら手術のほうがいいと仰るのであれば」と、私の中では、この時点で一度超選択的動注化学療法という選択肢は消していた。

 手術・放射線治療それぞれのセカンドオピニオンを一通り終えて、私は最後に、超選択的動注化学療法をきちんと検討することを決めた。都内の放射線科の先生の訪問後すぐに、言及のあった東北の病院に診察の予約を入れた。

 不破先生のことは頭にあったが、流石に伊勢までは遠く、今後のことを考えると、同じ治療であればなるべく近場を選んだほうがいいと判断したのだ。ただ、超選択的動注化学療法の実施者でありながらも、私に手術を勧められた真意が気になり、翌日電話で詳しく意見を伺ってみることにした。

 2月3日の朝に、會田さんから頂戴していた連絡先に電話をかけた。不破先生は、多忙な素振りを一切見せずに、まだ対面したことのない私の質問に対して、大変丁寧に回答してくださった。会話の中で、口腔がんの超選択的動注化学療法については、先生が最も経験豊富であり、私が伺おうとしていた東北の病院や、その後に訪問を検討していた神奈川の病院で、同治療法を教えられた張本人でいらっしゃる、ということが判明した。勿論、同治療法のメリット・デメリットについても詳しく教えてくださった。

 「超選択的動注化学療法ならば、不破先生に診ていただくのがベストだ」と確信した私は、その場で不破先生との診察の予約を入れ、電話を切ってすぐに、東北の病院にキャンセルと謝罪の連絡を行った。

 同日のお昼過ぎ、翌週頭の伊勢までの移動を調整していた私に、今度は不破先生から電話がかかってきた。「もし本当に動注(※超選択的動注化学療法の略)をやるならば、全身抗がん剤を打つので、今後妊娠できなくなるリスクがある。今は卵子凍結の技術も発達しているので、治療の前に必ず妊孕性温存治療をやってほしい」という話だった。

 卵子凍結自体には元々興味を持っていた。しかし、本格的に検討したことはなく、保険適用外で高額だということ以外に、その内容を把握していなかった。電話を切ってすぐに詳細を調べ始めた。そこで明らかとなったのは、妊孕性温存治療自体数週間はかかるもので、生理周期との兼ね合いから思い立ってもすぐに行えるような治療ではない、ということだった。

 私は、この時点で治療法を正式に決めていたわけではないが、妊孕性温存治療についても念の為に今のうちから動くべきだ、と判断した。産婦人科医の友人にすぐに連絡を取って、都内でがん患者向けの妊孕性温存治療で実績を上げている病院を教えてもらい、伊勢通院の翌日に診察の予約を入れた。

 治療法・病院がなかなか決まらないという不安の中で、運が悪ければ将来の妊娠・出産を諦めなければならないかもしれないという事実に直面し、病理検査の影響で舌の痛みが増していたのと合わさって、暫く眠りにつけない夜が続いた。(余談にはなるが、当時の私はその痛みをがんの進行によるものだと勝手に思い込んでいたため、恐怖心も膨れ上がっていた)

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問い合わせをした際に添付した患部の写真

 2月8日、伊勢日赤での不破先生の診察を終え、私は漸く、超選択的動注化学療法を受けることを正式に決めた。がん宣告を受けた日からちょうど2週間後のことである。手術とどちらにするか、直前まで非常に悩んだ。先生も一緒になって考えてくださった。最終的な決め手となったのは、実際に診察していただく中で、私の腫瘍が舌の奥部分で深い潰瘍を形成しており、手術では半切では済まない可能性がある、と判明したことだった。

 「半分以上となると機能障害が大きく残るので、動注のほうがメリットがあると言える。あなたはまだ若い。治療自体は手術より辛いが、動注で治ります」と、不破先生が力強く仰ってくれた。その日は、漸く治療法と病院が決まったという安心感と、手術が第一選択であると殆どのお医者さんに伝えられた中で、なお非手術療法を選択したことへの拭えない不安感の両方を抱えながら、東京に戻った。早速翌週から治療を開始し、1回目の全身抗がん剤を投与することになっていた。

 翌日、予定通りに都内の大学病院で妊孕性温存治療についての説明を受けた。先生からは、最速のスケジュールで動けたとしても、治療が終わるのは約2週間後であり、その間は数日に1回の頻度での通院が必要で、抗がん剤の投与が許されるのは治療完了後から1週間以上が経過した3月上旬である、と伝えられた。つまり、翌週からのがん治療との両立は不可能、ということだ。実際に妊孕性温存治療が出来るかどうかは、がん治療の開始をどこまで遅らせられるか次第、ということになった。

 帰路についてすぐに不破先生に電話を入れ、事情を説明した。妊孕性温存治療は諦めなければならないかもしれないと覚悟していた私に、不破先生は、「それであれば、放射線治療を先に行いましょう。抗がん剤は3月上旬からで。暫くは伊勢と東京の往復を頑張ってください」と解決策を提示してくださった。
 喜びのあまり、伊勢-東京間の往復を何度も行わなければいけないことなんて、少しも気にならなかった。

 そうして、2月10日から妊孕性温存治療が、2月18日から放射線治療が始まった。2月26日に最後の都内での診察を終えるまで、東京と伊勢を往復する日々が続いた。治療の副作用がある中での長距離移動の連続は想像以上に大変ではあったが、無茶だと感じるほどではなかった。最終的に、妊孕性温存治療は無事成功に終わり、予定よりも多い数の卵子を凍結保存することができた。

 2月末からは完全に拠点を伊勢に移し、がん治療に専念した。治療は、IMRT照射による放射線治療、1回の全身抗がん剤投与と6回の動脈内抗がん剤投与といった内容で、期間としては約2ヶ月半に及んだ。新型コロナウイルス感染症流行の影響から、入院は抗がん剤投与期間中のみに制限され、放射線治療中は通院を行っていた。学生時代の友人夫婦がたまたま伊勢市内に住んでおり、大変有り難いことに、拠点として快く自宅の一室を利用させてくれた。

 入院中は、土日も祝日も関係なく、不破先生をはじめ、治療に携わってくださっていた沢山の先生方や看護師さん、薬剤師さんが病室を訪れ、私の様子を見ながら臨機応変に治療計画を練ってくださった。感染症対策から、家族すらも面会謝絶となっていた中で、孤独ではなかったかと尋ねられることも多いが、伊勢という土地柄ゆえか、皆さん凄く穏やかでフレンドリーで、不思議と寂しさを感じることはなかった。もちろん、家族を含め、状況を気にかけて定期的に連絡をくれる友人や同僚の存在も、闘病生活の中で大きな心の拠り所となった。

 治療の副作用・後遺症に関しては、覚悟していたよりも辛いものもあれば、幸運なことに軽度で済んだものもある。覚悟していたよりも辛かったのは、脱毛と味覚障害、食欲不振、口腔内乾燥である。

 今回の治療で使う抗がん剤については、そこまで脱毛を引き起こさないと事前に説明を受けていたが、生憎、私の身体は敏感に反応してしまったようで、全身抗がん剤の投与が終わってから徐々に髪の毛が抜け落ちていった。終いには7、8割方失ってしまったので、「もういっそのこと」と思い、治療の途中で自ら看護師さんに丸坊主にしてもらった。

 味覚障害については、放射線治療を始めてから約10日後の2月末から始まった。その報告をすると、不破先生からは、「随分早くから始まったね。ここから1年は戻らないと思ってください」と伝えられた。最初のうちは甘味がまだうっすらと感じられたので、アイスクリームや大福などを食べることでカロリー摂取を図っていた。

 しかし、全身抗がん剤の投与後から一気に悪化し、甘味すらも全く分からなくなった。そこに、食欲不振と口腔内乾燥が組み合わさったため、何を口にしても不快に感じるようになり、食事の時間が1日の中で一番憂鬱となった。退院するまで、まともに食事をとれた記憶はない。

 一方軽度で済んだのは、嘔吐と口腔内粘膜炎である。抗がん剤というと、誰もがまず真っ先に思い浮かべるのは脱毛に加えて激しい嘔吐かと思うが、近年は制吐剤が発達しているようで、私の場合は、抗がん剤投与直後の吐き気はあれど、幸いにも実際に嘔吐を経験することはなかった。

 口腔内粘膜炎についても、暫く唇にワセリンを塗り続けないといけない期間は続いたが、口を一切動かせないだとか、痛すぎて眠れない、といった程ではなかった。口腔内の痛みという観点では、闘病期間を通して、病院・治療法を探していた期間がピークだったように思う。その他にも、手足の皮膚の乾燥などにも悩まされたりしたが、上述した障害よりは些細な問題だった。

 入院中は総じて元気がなく、基本的には寝ているか横たわって動画を見ているかの日々が続いた。その日1日をやり過ごすのに精一杯といった状態だったが、抗がん剤投与が進むにつれ、自身でも腫瘍が小さくなっていっていることを実感できていたため、「辛すぎるのでもう治療を続けたくない」と思ったことはなかった。

 退院して体調が回復したらやりたいこと、行きたいところや会いたい人のことを思い浮かべながら、退院予定日までの日数を毎日指折り数えていた。

 そして、4月29日に無事に退院を果たした。最後の動脈内抗がん剤投与が終わってから、MRI検査で腫瘍が消えたことを確認できたのだ。元々2回を予定していた全身抗がん剤の投与が1回で済んだため、最初の予定よりも1ヶ月ほど早い退院となった。その日は東京から両親が迎えに来てくれた。ロビーで私の姿を見つけるやいなや母が駆けつけてきて、「こんなにやせ細っちゃって」と、私の腕を掴みながらうっすらと涙を浮かべていた。

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退院当日に、お世話になった看護師さんたちと撮影した1枚

 そこから7月末まで、治療で失った体力を回復させるべく、自宅療養を行った。退院から1ヶ月が経過した頃には、1日中問題なく外出できる程度まで回復し、今回の発がんの原因として考えられるかもしれない奥歯の矯正治療(セカンドオピニオンを含め、何人もの専門家に診ていただいたが、私の奥歯の傾斜と今回の発がんに明確な因果関係があると断定することは難しく、病気の原因は不明というのが公式の見解である)を始めた。

 8月には職場への復帰も果たした。味覚も徐々に戻り、9月頭の定期検査では完全に障害を克服したことが確認された。元々1年間続くと覚悟していた分、半年で克服できたことは奇跡のように感じた。

 本稿を執筆している現在、がん宣告を受けてからちょうど1年が経とうとしている。お陰様で、今ではもう身体はすっかり元気になった。大きな手術の傷跡もなければ、話すことも食べることも全く問題なく、自分から話題に出さない限りは、がん患者であることは一切気づかれないだろう。

 口腔内乾燥のみまだ若干続いているが、日常生活に支障をきたすほどではない。ただし、残念ながら、がんという病気の性質上、あと4年を無事に過ごさないことには「完治した」とは言えない。1ヶ月半に1回、定期検査のために伊勢まで通院する度に、少し緊張している自分がいる。再発の可能性は、誰にとってもゼロではないのだから。

 けれど、これだけは自信を持って言うことが出来る。今後もし再発や転移が認められたり、新たな後遺症に悩まされることがあったとしても(代表的なのは顎骨壊死だろう)、私は、初期治療として、不破先生のもとで超選択的動注化学療法を受けたことを後悔することはない。
 
 がん患者であろうがなかろうが、誰の人生にも、いつだって死はすぐそばに潜んでいる。最大限健康に気を使って生活をすることは勿論大前提になるが、何よりも重要なのは、今この瞬間を自分らしく生きることだと思う。結局、幸福な人生というのも、その連続でしか成り立たないものなのだから。今回私が選択した超選択的動注化学療法は、私にとって、自分らしく生き続けることを可能にしてくれた治療法だった。

 最後に。今回の闘病を通して私が学んだことの一つであるが、ある病気に対して、自分の専門領域を飛び越えて、世の中に存在している標準的な治療法を網羅的に把握しているお医者さんは殆ど存在しない。がん治療でいうと、外科的手術、放射線治療、抗がん剤治療の3つだ。
 
 本稿をお読みいただければお分かりかと思うが、基本的に、お医者さんは自分の専門領域の治療法を患者に提示する。他の領域の治療法については、辛うじて存在を把握していることがあったとしても、具体的なリスクや治療実績まで把握していることは極めて稀であろう。

 実際、私の退院を聞きつけた(口腔外科ではないが)外科医の友人から、「正直ステージⅢの舌がんなんて絶対手術したほうが良いと思ってた。勉強になりました」と連絡を貰ったぐらいだ。自身の治療法と手術療法を最後まで同列で検討してくださった不破先生は、非常に特別な存在である。

 “自分らしさ”を定義できるのは自分だけであり、幸せな人生というのも、私達ひとりひとりが自分でリードする責任を負うものだ。目の前のお医者さんは、医療行為を通じてそれをサポートしてくれる存在でしかない。命に関わる意思決定であればあるほど、「もうここまで考え抜いたのだから、将来何が起きたとしても後悔することはない」と自信を持って言えるところまで、自分の頭で全ての選択肢を比較検討し、考え抜くことが大切だと思う。

 勿論、「とりあえず命さえ助かればいい」という考えを否定するつもりはない。けれども、「自分らしく生きる」という観点から治療法を検討することで、損をする人はいないのではないか。

 そして、自分のためにそのような観点から検討できるのは、自分以外に存在しない。治療開始まで少しでも猶予がある状況なのであれば、他の治療法についても自分で調べ上げ、セカンドオピニオンを受けるということは、「自分らしく生き続けるために何をすればいいか」という重要な問いへの答えを見つけるための、非常に有効な手段である。今回の私の体験記が、読者の方にとって、いざというときに役に立つ武器のような存在になれるのであれば、それ以上に光栄なことはない。

謝辞

 この場を借りて、「市民のためのがん治療の会」の會田様、主治医の不破先生、直接診察してくださいました全ての先生方に、深く御礼を申し上げます。本当にどうも有難うございました。

 あと少しでも診断・治療が遅れていたら、今はもう亡き命になっていたかもしれません。今こうして前向きな気持ちで体験記を執筆できているのは、皆様が叶えてくださった奇跡に他なりません。

 闘病生活を支えてくれた家族・友人・同僚にも、心より感謝しております。
 皆さんからの多大なるサポートと深い愛情なしでは、治療は乗り越えられませんでした。命拾いをした残りの人生を通して、恩返しに努めたいと思います。皆さんの身になにか困ったことがあったときに、一番に救いの手を差し伸べられるような存在になることが、私の今後の人生の指針です。
(市民のためのがん治療の会 シリーズ「がん治療の今」No.462より転載)

李 禎み(り よしみ)
中国生まれ、日本育ちの朝鮮族。日中韓ではなく、日英中のトリリンガル。2017年、東京大学経済学部卒業。在学中に、清華大学への長期留学や、複数のITスタートアップでの長期インターンを経験。卒業後、AR(拡張現実)技術を用いてソフトウェア開発を行うプレティア・テクノロジーズ株式会社に、共同創業者として参画。2021年末まで、同会社のHRManagerを務める。

會田昭一郎(あいだ・しょういちろう)
市民のためのがん治療の会代表。舌がん治療による体験から最適な治療の選択の重要性に気がつき、2004年、「市民のためのがん治療の会」を設立。
セカンドオピニオンの斡旋や、がん治療に関する普及啓発活動、医療環境整備の政策提言などを行っている。

●市民のためのがん治療の会 http://www.com-info.org/

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HIVも予防できる 知っておくべき性感染症の検査と治療&予防法
世界的に増加する性感染症の実態 後編 あおぞらクリニック新橋院内田千秋院長

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毎年世界中で3億7000万人超の感染者があると言われる性感染症。しかも増加の傾向にある。性感染症専門のクリニックとしてその予防、検査、治療に取り組む内田千秋院長にお話を伺った。

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