誰がマスク依存症なのか?shutterstock.com
初めて日本の土を踏んだ外国人、なかでも欧米人たちの第一印象が「なんでこんなに病気の人が多いんだ!?」という話は少なくないようだ。どうやらこの印象は「マスク依存症」の人々のせいのようだ。風邪やインフルの予防に加え、花粉症対策のマスク陣が出そろうこの時期に初来日すれば、誤解度はなおさら高いだろう。
未知の日本人同士が、マスク人とのすれ違いざま、相手の着用理由が判別できるかといえば、それはそれで難問だろう。多少の交流を持つ相手ならば、経験則から「マスク依存症」が見抜けるかもしれないが、赤の他人では理由が紛れて判別不可能なのが今の季節だ。
今年に入ってから耳にする機会の増えた「マイク依存症」なる、ありそうでなかった新語。もともと原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか』(光文社新書、2010年1月16日発売)や菊本裕三『だてマスク依存症~無縁社会の入口に立つ人々』(扶桑社新書 [Kindle版]2011/6/1発売)、ブロガーの不和雷蔵のコラムなどで同様の指摘があるが、今年の1月、AllAboutNewsで臨床心理士の矢野宏之氏が「増えている“マスク依存症”の深刻な弊害と克服法」という記事を発表したことで大きな話題となった。
取り立てて理由がないのに外せない、手放せない
季節折々の疾患予防や対策、あるいは無邪気な遊び心などの明確な理由はなく、むしろ傍目には「無意味な着用」とも映るようなマスク愛用者。いや、日常生活全般でマスクが手放せない、着けていないと落ち着かないという人々の増殖ぶりをそう名付けたのだ。
昔から社交不安障害(=対人恐怖症)や醜形恐怖症(自意識過剰の表裏)などの内面事情から極力マスクを外さないため、周囲から「変わり者」とか「付き合い辛い」とかの先入観を抱かれて損するタイプの人はいた。が、昨今話題のマスク依存症と思しき該当者の場合はどうやら、他人からの誤解や先入観をむしろ歓待している節さえ見られる。
要は極力、他人と接しないで済ますためのマスク(依存)なのだ。「目は口ほどに」云々の譬えを出すまでもなく、ヒトとヒト同士が言語以外で(ないしは言語に添えて)意思疎通を図る場合は互いの目や口元の表情で忖度する。空気を読む日本人同士ならば尚更だ。
「Not only look but see.」と「Not only know but feel.」
が、マスク依存症の人々はこれを忌避し、喜怒哀楽を示す表情や初対面の印象をなるべく消して、親睦や交流面ではマイナス要素以外の何ものでもないリスクも厭わないかのようだ。さすがに就活の面接場面でも外さない人は皆無だろうが、社交の場でも季節外れの意固地な着用を貫くようでは変人扱いを免れないであろう。
そもそも一日中マスクを外さないのでは、既知の周囲もコンプレックスの質や複雑な内面事情を推し量れない。悪循環に想えるが、当人の目的自体が達成されているからむしろいいのか!? 入浴や就寝時以外は外さない、家族の前でも外さない、外出時に着用しないと不安で仕方がない、冬場以外も手放せない、記念撮影時も頑なに着けている、等々……。
そんな傾向が見られれば立派に<マスク依存症>である。口臭を気にして以来マスクを外せなくなったという依存理由も解らぬではないが、本質のはき違えではないのか。極力他人と話したくないとかの、いわば本音のカムフラージュ効果も少なくはないのだろうが問題視されて関係が拗れるほうが余程煩わしくはないか。一度、専門医を訪ねてみては。
社交不安障害の治療には通常、エクスポージャー法と呼ばれる心理療法が施される。SMAPメンバーで高所恐怖症の稲垣吾郎さんがTV番組の収録で高さ20m×全長445mのワイヤー上を滑車で滑り落ちるという企画のNEWSをお伝えした際にも紹介したものだ。
これは体験活動の新理論(exposure)を下敷きとし、現実を「見るだけ」ではなく「見極める」(Not only look but see.)、現実を「知るのみ」でなく「全身で感じる」(Not only know but feel.)。つまり、あくまでも主体的判断を重視する体験理論だ。
一般社会に置き換えれば、単に「マスクを外す」に止まらず、自身が不得手(逃げたい)と思い込んでいる場面に敢えて挑む(挑ませる)。社内でのクレーム対応や取引先との交渉事、会議でのプレゼンや苦手な上司との交流などが考えられ、いずれも「しっかりと相手の顔を見て臨む」勇気が問われ、その積み重ねでマスク依存から脱しようという試みだ。
(文=編集部)