そして、こころの中で分裂している対象については、正確に考えることが困難になる。私が「日本的ナルシシズム」という言葉を使って示そうとしているのは、日本が直面する困難な課題について現実的に考えるよりも、日本とそれと一体化した自分との良いイメージを守るという防衛的なこころの動きに終始して、否定的な側面を分裂排除してしまうために、現実的に考えられなくなる弊害が起こり得ることを指摘し、その乗り越えを目指すことだ。
もちろんこれは、ひっくり返した否定的な同一化を果たすことを推奨するものでは決してない。日本と日本人である自分についての否定的なイメージにのみ込まれることも、現実的ではない。この二つを比べるのならば、どちらかといえば前者の方が望ましい。
なぜ、このような分裂が維持されてしまうのだろうか。それは、社会や集団に属する場面で、「人任せにした上で、誰かに失敗させて後出しジャンケンの批評を行い、上から目線で発言する」ことが、現代の多くの場面で容易で可能だからだ。
現実的な場面で、自己責任で一貫した発言や行動がなされる時には、その瞬間には何らかの形での分裂の統合がなされている。このような活動を続けるなかで、一貫した社会的な責任主体たりうる自我が成立するだろう。過剰に楽観的な自分と対象についての考えを持っていた場合には、それは適切な価値下げを経験するだろうし、逆の場合もある。
しかし、観客席から見物しているような心的状況では、実際に行動している人に同一化したまま、自分の責任は問われないで安全に疑似体験をすることができる。この場合に、ナルシシスティック・パーソナリティーのこころで起きるのは、自分の分裂したこころの中の、都合のよい部分を自分の方に残し、都合の悪い方を現実に行動している人物に投影することである。
そして、常に都合の良い方から都合の悪い方を批判する心的体験を継続することが可能となる。この場合に、自覚的にはいつでも気分よく勝ち続けることができるが、ナルシシズムの修正が起きることも、分裂が統合に向かうことも十分には行われなくなる。こころの中で不戦勝を続ける内に、現実では不戦敗を続けるようなものだ。
これでは、民主主義は機能しない。なぜなら、この政治システムの基本は、一貫した責任を帯びた発言や行動を行える自我を備えた個人の集団が、社会を作っていることだからだ。それなのに、ナルシシスティックな同一化を社会の大勢に対して保持しつづけるこころしか立ち現れないとしたら、それは危機的な状況だと考える。
現実に目立つ言動をしている人の批判を行うことは許容されるべきである。しかし、それだけに留まってはならない。自分なりの考えを持てるようになること、それを発言できるようになるための努力を行うことが、民主主義の社会に生きる国民にはどうしても求められている。