加藤典洋は1999年に出版された『日本の無思想』という書物の中で、戦後の日本に一つのニヒリズムが生じていることを指摘した。議論の開始となるのは、社会的な非難を呼び起こすような失言を行った後に、簡単に前言撤回して謝罪することをくり返した何人かの政治家のエピソードだった。
その中には、1968年の農相が発した憲法についての「自分の国は自分で守る自主防衛が大切だ。こんなバカバカしい憲法をもっている日本はメカケみたいだ」という発言もあった。ある意味で、私たちの社会は50年前と同じことをくり返している。問題の先送りをくり返して、考えるための時間を浪費していたのだ。他に取り上げられたのは、1994年の法相の「南京大虐殺はでっち上げだ」であり、1995年の阪神淡路大震災の際の大阪府知事の「被災者も自分でコメを炊けばいい」といった発言だった。
前言撤回が拒否された例としては、1986年の文相の「(日韓併合は)形式的にも事実の上でも両国の合意の上で成立している」と、1989年の長崎市長の「天皇には戦争責任があると思う」が挙げられていた。正反対の立場ではあるが、首尾一貫した姿勢を貫いたことによって、この二人は加藤によって評価された。
加藤は一連の出来事に言及しながら、日本社会が「二重思考」を許容していることを問題視した。つまり、政治家が個人の信念としては発言の誤りを認めないが、世間を騒がせた責任を取ってポストを辞任するというような考えと行動の分裂が、受け入れられていることを明らかにしたのだった。それは、より具体的には「失言政治家が前言撤回してなお自分を恥ずかしく思わずにすんでいる」という事態として現れる。私はこれについて、「分裂が許容されることによって葛藤や考えが生じず、ナルシシズムが維持される」と記述したい。
「ホンネ」でも「タテマエ」でも、「どっちだっていいや」と思うニヒリズム
加藤の論考は鋭く、深い。通常ならば、このような思考が可能となるのは「ホンネとタテマエ」を使い分けているからだと言及することで十分とされるだろう。しかしこの著書の中の考察は、その先に進んでいた。「ホンネ」が本当のことで「タテマエ」が嘘なのではない、と喝破されたのだ。
その論理を詳細に追うことはしないが、「ホンネ」は確立した自我が抱く「本当の信念」ではない。こころの中に存在する分裂したこころの一方が「ホンネ」であるに過ぎず、これは実は「タテマエ」と交換可能である。「ホンネ」と「タテマエ」を使い分けるこころの奥底に、「どっちだっていいや」というニヒリズムが働いていることを、加藤は明らかにした。
国民が「どっちだっていいや」というニヒリズムに取りつかれ、「議論」と称して未熟なナルシシスティックなこころが行う投影や排泄ばかりをくり返すのならば、現実からの急き立てに焦った為政者の強権的な動きを誘発しやすくなってしまうだろう。
ニヒリズムを乗り越え(私にはニヒリズムとは否定的な同一化に由来するナルシシズムの問題と思える)、「オモテ」と「ウラ」の使い分けではない自分の考えを持てるようになることを、この変化と危機の時代に、国民の一人一人が目指すべきだと考える。
しかし、これは容易に達成される課題ではない。性急なやり方ではなく、一つ一つ学び、経験し、対話を積み重ねていくことが丁寧に行われていく必要がある。
文=堀有伸(精神科医)
(2015年8月4日 MRICより転載)