ディスレクシアは、人が文字で書かれたものを理解するプロセスに沿って、以下の3段階に分けられる。
①視覚的(文字を見る能力)な問題
②音的(文字を音に変える能力)な問題
③文字や文章を理解する(文字を意味に変える)段階での問題
①の問題とは、文字が反転して見える、歪んだり二重に見えたりすることを指す。②では、文字を脳内で音に変える段階で問題があると、小さい「っ」などの促音や「パーク」などの長音が読めないなどの症状が見られる。
われわれは通常、文字や文章を意味に変えて理解するプロセスを経て、読み情報を受け取っている。だが、この段階だけに障害がある③は、長い文章を読んだり、読解問題に直面したりして、初めて著しい困難が出てくる。そのため、本人のやる気や集中力のなさ、努力不足のせいと誤解して、周囲もこの障害を見逃してしまいやすい。
九九が言えても文章になると意味がつかめなくなる
③のつまずきのわかりやすい例としては、次のようのものが挙げられる。
九九の暗唱はスラスラ言えて、足し算・引き算も数式では問題がない。しかし、「花子さんはりんごを5個持っていました。ピクニックに行って3個食べました。さて、残りは何個でしょう?」というような文章問題になると、とたんに答えられなくなったりする。
そう言われて思い返してみれば、小学校時代、遊んだり体操をしたりする分にはまったく問題がなく、むしろ得意なくらいなのに、なぜか勉強は苦手な同級生がいなかっただろうか? ひょっとすると彼らのなかにも、そうした軽度の障害ゆえに、いわゆる"学校の勉強"についていけなかった人がいるかもしれない。
「障害は"個性"に置き換えられる」という視点
昨今、「障害」という言葉をめぐる思索は深まりを見せている。誰もが何かしらの障害を抱えている、つまり、それは個性に置き換えられるという視点だ。何かが足りなければ、そこを補おうとする能力が活性化され、得意分野で能力を開花させようという意識次第で、障害が才能開花の着火剤ともなりうるわけだ。
トム・クルーズはその代表例だが、映画監督のスティーブン・スピルバーグもディスレクシアを告白したひとりだ。学校を同級生より2年遅れで卒業したことや、現在も脚本を読むのに人の2倍の時間がかかることをインタビューで話している。ほかにも、キアヌ・リーブス、ジェニファー・アニストン、オーランド・ブルームなども、自身がディスレクシアだったことを告白している。
また、文部科学大臣・下村博文の息子も小学校時代にディスレクシアであることが判明し、当時の日本では支援体制が整っていなかったためにディスレクシアの先進国であるイギリスの児童教育に留学し、「現在は舞台芸術やファッションの世界で身を立てようとしている」という。下村大臣は、「発達障害を含めた特別支援教育が必要な人たちに対しても、重点項目の大臣枠として予算計上している」と発達障害のキャリア教育の充実について発言している。
アルファベット自体には意味がないため、「b」と「d」が見分けられないなど、英語圏ではディスレクシアの割合が多い。翻って、日本は象形文字の国。漢字を覚えるときも、たとえば「台」という字なら「ムに口」などと言いながら覚えていく。その点で、英語圏よりディスレクシアの割合は低いと見られている。
だが、それゆえ日本語独自の指導と支援の方法が求められる。できるだけ早い段階でディスレクシアに気づき、一人ひとりにあわせた指導で改善できる余地も大きい。音読ができる子どもなら、学校まかせにせず、家庭で親がフォローしながら「行間の空いた文章を読ませる」「1行ずつ次の文章を隠して、ゆっくりと読む(理解する)」などのトレーニングを積めば状況はかなり改善する。
先の調査結果は、〈知的遅れはないものの、学習面で著しい困難を示す〉と〈担任教師〉が回答した児童生徒の数、つまり教育現場に限った数字だ。教育現場に任せっきりにせず、社会全体で認識を高め、支援の道筋がつくられれば、この障害ゆえの誤解やいじめも減っていくだろう。
(文=編集部)