小池(旧姓・林)泰男死刑囚がサリンをまいた列車は、築地駅に止まったことから、私が乗っていた列車の一本前だったことがわかりました。私が介抱した患者さんは、小池死刑囚がサリンをまいた列車に乗っていて、八丁堀で降りたところ、駅の構内で倒れてしまったのだと思います。私もちょっとの差で、サリン電車に乗っていたら、今頃はこのようにしていられなかったと思います。
この日、妻は生後8カ月の長男と実家に帰省中でしたが、知らせを受けて急きょがんセンター中央病院に向かいました。しかし、東京中がパニック状態で、電車はすべてストップ。タクシーで江東区から築地に向かったものの、交通規制だらけで、なかなか動けず、かなりの時間を費やして、やっとたどり着いたとのことでした。
入院したのは10階病棟の個室でした。昼間は警察の方、営団地下鉄の人、院長先生、お見舞いの人など、たくさんの人が面会に来て、賑やかでしたが、夜になると一人ぼっちになりました。妻も幼子がいるため、夕方には家に帰りました。
サリンと聞いても、当時は事件の真相もわからず、医学的な知識はまったくありませんでした。有機リンに似た毒ガスの一種くらいの情報しかなく、全貌は明らかではありませんでした。あまりに急なことで、妻には、「もしものことがあったら、息子を頼むな」としか言えませんでした。
夜になり、一人になると、得体の知れない恐怖が襲ってきました。「もう自分は明日には死ぬかもしれない」「まだ、自分は31歳なのにもう死ぬのか」「なぜ自分だけがこんな目にあわなければいけないのか」「死んだらどうなるのか」「体が消滅しても魂は本当に残るのか」
その日はほとんど眠れませんでした。
夜には、看護師さんが定期的に巡回してくれるのですが、それが本当に癒しを与えてくれました。
「どうですか?」
単純な言葉ですが、この優しく語りかけてくれる言葉に、患者さんは本当に癒やされるのだということを知りました。看護師さんが、血圧を測り、検温をし、出て行こうとするときに、「もっとずっといてほしい」と思いました。
入院して初めて判るがん患者さんの苦しみ
がんの診療医である私は、同じ部屋で患者さんを何人も見送ってきました。この部屋に入院した患者さんも、自分と同じような思いをしているのだとしたら、がん患者さんたちはもっと長い間入院して、毎日この恐怖と闘っているのだと思うと、涙が出てきました。自分は、病気と闘う患者さんたちの心を少しでも理解しようとしてきたのか? 明日をも知れないがん患者さんの気持ちに少しでも寄り添おうとする気持ちはあったのか?
自分は、その患者さんたちを少しでも癒すことができたのだろうか?
私は、クリスチャンであり、神様を信じてはいましたが、神様に祈りました。「神様、この災いからお救いください。この災いが不治であるものなら、受け入れる勇気をください」と。
幸い、私のサリンの急性毒性は1週間ほどで改善し、復帰することができました。後遺症やPTSDなどもなく、今日まで過ごさせていただいています。短期間の入院ではありましたが、色々なことを学びました。自分が普通に生きていることも奇跡的なことです。一時は死を覚悟しましたが、今は、生きている、というより、生かされていることに感謝をしています。
そして、サリンの被害者とはなりましたが、入院することで患者さんの思いを少しでも理解するきっかけとなったことは、医師である自分にとって大切な経験となりました。
サリン被害に会うことも人生の一大事でありますが、がん患者さんにとっても同じで、がんになることは人生の一大事です。ヒポクラテスの言葉のように、われわれ医療者は、単に治療をする者ではなく、いつも患者さんを支え、慰めることのできる存在でありたいと思っています。
Cure sometimes
Treat often
Comfort always
[ヒポクラテスの言葉]
(文=勝俣範之、日本医大武蔵小杉病院腫瘍内科教授)