岩手県北上市で育った折居さんは、祖父が開業医だったこともあり、小さい頃から医者になるように言われて育ち、岩手医科大学に現役合格した。
「受験勉強をしていた高校生のときに思ったのです。他に何かやりたければ、まず医者になってからやればいいと。逆は難しいから」
そして晴れて医学生となり、1年生のときに脳外科医を目指すことを決意した。
「脳外科手術のビデオを見て、感動しました。『これだ! 脳外科医になろう』と。脳は高次機能を持つ、人間にとって極めて重要な臓器であることも惹かれた理由ですね」
しかし、脳外科は女医の少ない男性社会だ。国家試験に無事合格し、就職先を求めて訪れた東京の国立病院では、門前払いをくらった。
「男ばかりのところに、女が来ると面倒くさい、という感じでした」
ところが次に訪れた慶応病院は違った。
「世界的名医である河瀬斌(たけし)教授は、大変に手術が上手な方ですが、細かい作業を必要とする脳外科は、むしろ女性のほうが向いているとおっしゃってくださいました」
河瀬教授から推薦状をもらい慶応病院の医局に就職。朝6時に出勤し、帰宅は午前1時という日々が始まった。さらに地方病院への出向、レジデント(研修医)、チーフレジデントと激務の時を過ごし、脳外科の専門医としての資格をとる。
「資格をとるまでの最初の7年間は、本当に辛かったですね」
着々と脳外科医のキャリアを歩み始めたかに見えたが、34歳のとき、ファッションデザイナーを目指すことを決心した。破門覚悟で、医局に申し出たところ、寛大にも「行ってこい」と送り出してもらえたという。
留学資金を貯めるために、当直医のアルバイトをしながら、1年間外国語専門学校に通学。そして少女時代からあこがれていた、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズに入学する。世界三大ファッション大学のひとつだ。基礎クラスで1年学んだあと、ファッションデザインクラスを狙ったが難しかった。ビザのトラブルもあって帰国する。2012年37歳のことだ。
下積みアシスタントも黙々とこなす
帰国後は、慶応大学の関連病院などで脳外科医として週4日働き、週3日はファッションデザインにあてているが、かなりのハードスケジュールだ。
「医者の仕事は、金曜日に東京を発って北海道釧路市の病院で土曜から月曜の朝まで2連泊勤務。その後、羽田から神奈川県藤沢市の病院へ直行して、日中は外来をしてその夜当直という感じです」
さらに、篠原ともえのスタイリストとして有名な大園蓮珠氏のアシスタントを2年あまりつとめた。40歳近くになって、下働きのアシスタントをするのは、並大抵のことではないが、折居さんはサラリと言う。
「自分がやりたいことのためなので、やらざるを得ません。下積みをせずに上に行く人も増えていますが、それは卓越した能力がある人たちです」
現在の、脳外科医とファッションデザイナーを両立させている状態については、こう分析する。
「医者だけやっていると医者の嫌な部分が見えてしまいます。デザイナーにも厳しい部分が多くあります。両方やるから、医者の良い面、デザイナーの良い面が見えてきます」
とはいえ、ファンションデザイナーの道は、まだ踏み出したばかりだ。
「とにかく作り続けることだと思っています。作り続けていれば、気づいてもらえる。そして10年後も、脳外科医とファッションデザイナーを両立していたいですね。デザイナーとして、ロンドンやパリ、ニューヨークで作品を発表できるようになっていたいというのが目標です」
最後に尊敬するデザイナーを尋ねた。
「コムデギャルソンの川久保玲さんです。ファッションをアートととらえて、洋服であることにこだわらない、洋服である必要がない、と自由な発想が素晴らしいと思います」
川久保氏も、大手企業の宣伝部という異分野からファッションの世界に転じている。医師としてのキャリアパスを飛び出し、まったく新しい生き方を力強く模索する折居さんにとって、自らを重ねる部分が大きいのかもしれない。10年後が楽しみである。
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(取材・文=増澤曜子)