突然、乳児の目と耳に障害が!(shutterstock.com)
オリオン座流星群が凍てつく満天を切り裂く。その刹那、スターダストが地球に舞い降りた。37歳のロンドンっ子眼科医ウォーレン・テイにも、40歳を迎えたばかりのニューヨークっ子神経科医バーナード・サックスにも降り注いだ。だが、テイもサックスも、どんな奇跡が未来に待ち受けるのか知る由もなかった。
21世紀の今日、世界で指折りの医療福祉大国イギリス。この2人の青年医師が診療に奔走していたのは19世紀末。「ゆりかごから墓場まで」の国民保健サービス(NHS)もなければ、WHO(世界保健機関)も存在しない。ペストやコレラなどの伝染病や、数々の難病・奇病を手なずける医療技術も抗生物質もない、まったく手探りの暗黒時代だった。
「この網膜のサクランボのような紅い斑点は何だろう?」
テイもサックスも、企業資本の後ろ盾(スポンサー)や学閥などの柵(しがらみ)とは無縁の市井の一開業医。この2人が徒手空拳で立ち向かったのは、人類未踏の奇病だった。
1881年11月。ロンドンの夜は長く、底冷えがする。東の空にようやく顔を出した満月がテムズ川に凍りついている。デニス夫人は診察室に駆け込むなり、金切り声を上げる。「この児の眼が変ですわ!テイ先生」。夫人のか細い腕の中で泣きじゃくる、あどけない1歳の女児エミリー。テイは首を傾げる。「この児の網膜に浮き上がったサクランボのような紅い斑点は何だろう?」
眼科医ウォーレン・テイが世紀の奇病に遭遇した奇跡の瞬間だった。
乳児が突然、眼が見えなくなる!耳が聴こえなくなる!
この年、テイが論文発表した「網膜のサクランボのような紅い斑点」に瞠目したのが、アメリカの神経科医バーナード・サックスだ。6年後の1887年、サックスは、この奇病が東欧系ユダヤ人(アシュケナージ系ユダヤ人)に頻発する脳細胞の遺伝性疾患である仕組みを突き止め、その原因と病態を探るべく、日々の診療もそこここに研究に没頭する。
サックスは、視界が欠けたり、歪んだりする黄斑変性を伴う乳児黒内障性障害は脳の神経細胞に関わっているに違いないと考えた。やがて「ガングリオシドGM2」と呼ぶ脂質が脳内の神経細胞に蓄積することによって、常染色体劣性遺伝する神経リピドーシス (先天性脂質代謝異常) であることを掴む。21世紀に入ると、発見者のテイと研究者のサックスにちなみ「テイ・サックス病」の病名で広く知られるようになる。
テイ・サックス病は、稀に見る特異な病態がある――。新生児は生後6ヶ月頃までは正常にスクスクと発育する。だが、成長に伴って神経線維にガングリオシドGM2と呼ぶ脂質が急増するため、視力障害(黒内障)、聾唖、嚥下障害、筋萎縮による麻痺などの心身能力の衰退や中枢神経障害に襲われる。
発症は、新生児だけではない。20〜30代以降の成人でも歩行障害や進行性の神経機能低下を招く場合が少なくない。新生児も成人も、網膜にサクランボのような紅い斑点(チェリーレッド・スポット)が見られるのが著しい特徴だ。