病名だけでなく母校・九大を育んだ町の「橋本通り」にも名を残す
昭和に入り世界情勢も世相も、きな臭い不穏な空気を漂わせる。17年余り市井のかかりつけ医として人望を集めた橋本医師だったが、過労が祟ったのか診療も休みがちになる。あに図らんや、折からの極寒。1934年1月、橋本医師は腸チフスに感染し、多臓器不全に陥り、52歳の若さで急逝。皮肉にも死去の直後から、その功績が欧米の外科学会で絶賛されるようになった。
いつの時代も、何事かを成し遂げる偉人には、擁護者やメンターが存在するものだ。橋本医師も例外ではなかった。橋本策を一流の医療人に押し上げたのは、同郷の後輩に当たる秋田八年(後の鹿児島大学名誉教授)だ。橋本と秋田は、同郷のよしみから地元の阿山医師会(現伊賀医師会)の立ち上げや運営に尽力。秋田は公私にわたって橋本のよきアドバイザーとなり、終生のサポーター役に徹した。1973年、橋本の顕彰碑が伊賀町公民館前に建てられ、日本甲状腺学会のロゴにその肖像が彫り込まれた。
福岡人ならよく知っているように、九州大学のある東区馬出(まいだし)に橋本策の名を冠にした「橋本通り」がある。病名だけでなく、母校を育んだ町にも名を残した橋本。余程の尊崇を受ける人格者か、人徳の高いドクターであったにちがいない。
*参考文献/『アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語』(ダウエ・ドラーイスマ/講談社)など
佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。