財田川事件の無罪が確定したのは逮捕から34年後(shutterstock.com)
終戦から5年を迎えた1950(昭和25)年、東西冷戦のさなかに朝鮮戦争が勃発。空前の特需景気に湧く一方で、レッドパージ旋風が吹き荒れる。警察予備隊の創設は再軍備への不安を煽り、大蔵大臣・池田勇人は「貧乏人は麦を食え!」と大失言。D・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』が発禁となり、笠置シズ子が歌う「わてほんまによういわんわ~(『買物ブギー』)」が巷に流れた。
底冷えのする2月28日未明、身の毛もよだつ惨劇が起きる――。香川県三豊郡財田村(現・三豊市財田町)で、ひとり暮らしの闇米ブローカーの男性(63歳)が頭、顔、胸、腰など30数カ所を鋭利な刃物でめった刺しにされ、急性失血死。現金1万3000円(当時の換算でおよそ100万円)が奪われた。香川県警は、強盗殺人事件捜査本部を置き、闇米関係者、素行不良者、怨恨・痴情関係などを洗ったものの、捜査は捗々しく進まなかった。
4月1日、隣町の三豊郡神田村(こうだむら)で、2人組による農協強盗傷人事件が発生した。4月3日、三豊地区警察署は、谷口繁義さん(19歳)と青年Aを緊急逮捕。2人は近隣で「財田の鬼」と恐れられるほどの札付きの不良仲間だった。青年Aはアリバイがあり釈放。アリバイが疑わしい谷口さんは勾留され、犯行を自白。6月15日、高松地裁は谷口さんに懲役3年6月の実刑判決を下した。
この間も警察は、財田川事件の強盗殺人の容疑で谷口さんを厳しく追及した。だが、谷口さんの自白は得られず、犯行を裏づける証拠も出ない。そこで警察は、別件逮捕を重ねて勾留期間の恣意的な延長を図る。農協強盗傷人事件は6月29日まで、別件の窃盗罪容疑は7月11日まで、さらに別件の暴行恐喝罪容疑は8月1日まで、谷口さんの身柄拘束は、執拗に引き延ばされた。
7月22日以降、警察は、谷口さんに手錠をかけ、足にロープを巻いて正座させ、連日連夜の厳しい尋問や拷問を強行。谷口さんは、身柄拘束から115日目の7月26日、長期間にわたる精神的、肉体的な苦痛に耐えかね、やむなく自白。8月23日、起訴された。
谷口さんは、第1審でも第2審でも、無罪をひたすら訴え続ける。だが、1957年1月、最高裁の死刑判決が確定。その後、再審請求は徒労に帰し、22年もの歳月が無為に過ぎるが、1979年、弁護団の懸命な弁護活動が実り、再審がようやくスタート。1984年3月、5年の歳月を費やして、ついに無罪判決。逮捕から34年、谷口さんは53歳。白髪が目立った。