マルキ・ド・サドも絶賛した「死者と生者との対話の空間」
写真 IL PORTALE TURISTICO DEL PORTO DI ROMAより
写真 IL PORTALE TURISTICO DEL PORTO DI ROMAより
パレルモのカプチン修道会納骨堂
そんな時代に、イタリア人司祭のマッテオ・ダ・バッシオは保守的なフランシスコ会を脱会し、キリスト教の原点に立ち戻った厳格な清貧主義の徹底を主張して、1525年にカプチン修道会を創設する。
17世紀に入り、1626年には教会の建設が始まり、その5年後には周囲の墓地から納骨堂に荷馬車300台分の骨が移送されている。それらの人骨を用いた過剰な装飾を施すことで、カタコンベの人骨装飾様式の先駆となっていく。
カプチン修道会が目指した原初的なキリスト教は、死と肉体の腐敗への強迫観念を持っており、ミイラ製造や人骨装飾に取り組むことで死の世界を身近に引き寄せ、死者と生者との対話の空間を作り出していた。
この納骨堂は、天井にアーチがついた6つの部屋に仕切られ、それらをつなぐ廊下も含め、すべての空間が人骨に埋め尽くされている。ここで1日2回のミサも行われ、大いに評判となったが、当時はまだ一般の立ち入りは制限されていた。
ちなみに、「サディズム」の語源にもなった作家マルキ・ド・サドもここを訪れた著名人の一人として知られている。かのサドも、この人骨装飾の納骨堂の芸術性を高く評価していた。
「世界で最も美しい」と賞賛される少女のミイラ
「カタコンベ」とはイタリア語で地下墓地を意味する。もともとローマには、キリスト教がローマ国教となる以前、2世紀頃に作られたとされる「サン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会」の埋葬場所などが残されており、最初「カタコンベ」という言葉はこのような古い地下墓地を表していた。
だが、そのような古いものはあくまで納骨堂であって、カプチン修道会による過剰な人骨装飾が施されているようなものではなかった。
17世紀以降、カプチン修道会納骨堂はヨーロッパでも広く知られるようになり、カタコンベが拡散していくことになる。
そして、ローマに続く、カプチン修道会の傑作として残されているのが、シチリアのパレルモにあるサンタ・マリア・デッラ・パーチェ修道院である。ここには、1599年に最初の修道士が埋葬されて以来、1920年に作られた“世界で最も美しいミイラ”と呼ばれる少女のミイラまでを含む、約8000人のミイラがある。1ヵ所でこれだけ多くのミイラをまとめて見れる場所はここしかないかもしれない。
ここで改めて強調するなら、17世紀に始まるカプチン修道会の納骨堂はカトリック教会の厳格な宗教心を背景として登場したものであった。
一方、19世紀に人気を博すこととなる「カタコンブ・ド・パリ」や「チェコのセドレツ納骨堂」は、フランス革命以降の近代精神を背景とした唯物論的な立場から発想して、トンデモない過剰な人骨装飾の傑作を生み出していた。
21世紀に蘇るカタコンべの魅力、あなたはその現場で死者としっかりと対面することができるだろうか? 死者たちから発せられる不思議な力はいまも衰えることはないのである。
参考
ローマのカプチン修道会納骨堂
サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ修道院
http://www.cappucciniviaveneto.it/http://www.turismoroma.it/cosa-fare/la-cripta-ossario-dei-cappuccini
ローマのサン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会
http://www.catacombe.org/
パレルモのカプチン修道会納骨堂
カタコンベ・ド・カプチーニ修道院
http://www.catacombepalermo.it/
(文=ケロッピー前田)