「Precision Medicine(高精度医療)」を支えるゲノム医療
では「Precision Medicine」とは具体的に何を意味するのか?
2015年1月、米国のオバマ大統領は一般教書演説の中で、医療制度改革の改善策として新しい医療の考え方を発表した。2億1500万ドル(約220億円)もの巨費を投じて、研究と臨床で培った遺伝子情報などのビッグデータを活かしながら、個人の違いを考慮しつつ、特定の疾患に罹りやすい集団の治療や予防をめざすプロジェクト、それが「Precision Medicine」だ。
「Precision Medicine」は、平均的な患者を対象にした従来型医療から脱却し、予防や治療の世界に大きなイノベーションをもたらす可能性がある。「Precision Medicine」を支えるコア・テクノロジーが「ゲノム医療」だ。
先述の澤教授によれば、近年のゲノム解析技術の進歩が解析コストを驚異的にダウンさせているので、解析コストが1000ドル(約10万円)以下に下がれば、誰もが自分の血液型を知っているように、自分のゲノム情報を把握する時代は近いという。
「Translational Research(橋渡し研究)」で貢献度が特に大きいのは「がんの治療」
すべての医療は、研究室で解明された知見を疾患の予防・診断・治療に役立てるプロセスから始まる。研究と臨床をつなぐプロセスが「Translational Research(橋渡し研究)」だ。橋渡し研究の中でゲノム医療の貢献度が特に大きいのは、「がんの治療」だろう。
たとえば、「びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫」を例に説明しよう。このリンパ腫は、B細胞が月単位でがん化して増殖する中悪性度の悪性リンパ腫で、リンパ球の中のB細胞から発生するリンパ腫の30~40%を占め、最も発生頻度の高い病型だ。
だが、DNAマイクロアレイ(DNAチップ)の解析技術が急進展したため、このリンパ腫ゲノムが2群に分類できたことから、予後の良否を容易に予測できるようになった。
つまり、従来なら悪性リンパ腫の死亡率は55%などとひとまとめに表現されていたが、リンパ腫のゲノム解析によって、死亡率がA群は32%、B群は76%と明確に判別できるだけでなく、各群に適した治療も行われるようになった。まさに、精密に分類して精密に対応するPrecision Medicine(高精度医療)にゲノム医療が活かされた好例だ。
昨年10月、がん研究会(東京都江東区)は患者個々のゲノム(全遺伝情報)解析によるがんの高精度診断などの実現を目指す「がんプレシジョン(最適化)医療研究センター」を立ち上げると発表した。がんの遺伝子研究強化を目的に2001年に開設した「ゲノムセンター」を改組し、がんの遺伝子研究の世界的権威として知られる中村祐輔・米シカゴ大教授を特任顧問に迎えている。
血液や尿に含まれるDNAやたんぱく質の分析によるがんの超早期診断、がん細胞の遺伝子変異をターゲットにしたあらたな免疫治療の開発などのプロジェクトが始まっている。
AIの進化とともに歩むゲノム医療の課題とは?
ただし、ゲノム医療は臨床上の課題も抱えている。
ゲノム解析の結果は、心電図やレントゲンなどと違い、一目で何が起きているかは分からない。つまり、ゲノム解析が示すのは、確率や指標値なので、医師や患者のアクションにすぐ結び付かない。したがって、これをアクションにつながる情報に変換するためには、ソフトウエアやAIのアシストが必要になる。
AIの臨床応用の可能性は大きいものの、たとえば疾患Aの確率は80%、Bは18%、Cは2%などの確率を表示し、仮説を例示するに過ぎない。疾患Aの確率が100%と回答できるように進化するには、もうすこし時間がかかりそうだ。
患者によってAIの回答を聞きたいのか医師の話を聞きたいの違いもある。本当に患者の感情に寄り添えるのか。倫理的な意思決定にまで踏み込めるのか。そのような医療の不確実性や流動性を克服できるか、まだまだ課題が多いものの創薬からゲノム医療、未知の領域へ。AIのポテンシャリティは、限りなく未来に広がっている。
(文=佐藤博)
佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。