1872(明治5)年12月16日、岩倉具視をはじめとする明治維新の士からなる岩倉使節団が目にしたパリは、舗装されたシャンゼリゼ通りの両側に聳える白亜の建造物などの「名都の風景」であった。しかし、このころ裏通りはまだゴミであふれていたはずである。事実、1873年と83年には腸チフスが流行している。
1862年、幕府遣欧使節の一人が「殊にアンゲネーム(快適)なるは厠に御座候」と記したのは、ここパリの水洗便所であった。これはまさに、歴史の皮肉といってよいかもしれない。
江戸時代に世界に先駆けて上水道(神田上水)を整え、共同浴場をもち、共同便所と屎尿の汲み取り・肥料としての再利用といったシステムを完成させていた江戸の街からの使者が見習おうとしたものは、いったい何だったのか。少なくとも、伝統的に風呂好きの日本人が世界に誇れる衛生観念をもっていたことだけは間違いない。
参考文献:ロジェ=アンリ・ゲラン著(大矢タカヤス訳)『トイレの文化史』(築摩書房)、ローレンス・ライト著(高島兵吾訳)『風呂トイレ讃歌』(晶文社)、蔵持不三也著『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』(朝日選書)、医学のあゆみ178:196-198、1996より転載