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【シリーズ「血液型による性格診断を信じるバカ」第3回】

馬鹿な信仰 〝血液型性格論〟はこうして形成されてきた


日本で血液型への関心が広まった浜口雄幸首相襲撃事件

 古川説が提唱されて間もなく、日本で血液型という言葉がひろく知られるようになった。1930年11月14日、浜口雄幸首相の遭難事件が起ったのである。この日、岡山での陸軍大演習を視察するため、東京駅から列車に乗ろうとした浜口首相が右翼の青年に襲われ、ピストルで腹部を撃たれた。連絡を受けて東大病院から外科の塩田広重教授が駆けつけ、血液型(ABO式)を検査し、血液型の合う次男からその場で輸血を行った。

 浜口も次男もともにO型で、輸血時のトラブルがもっとも少ないタイプだった。その後、搬送先の東大病院でさらにO型の輸血を受け、弾丸で傷ついた小腸を切除する大手術をうけ、奇跡的に一命を取りとめた。この一連の事件報道により、一般庶民は初めて「輸血と血液型」というものを知った。

 「輸血により首相の生命が助かった」という話が広く知れわたり、患者や家族から「輸血してほしい」という医師に対する圧力も高まった。供血者が足りない場合があり、1931年8月には、東京深川の木賃宿(簡易宿泊所)に泊まっている貧乏人(浮浪者、ルンペン)を対象に初の買血が行われている。

百貨店の客寄せで評判になった「血液型検査所」

 つまり、「輸血と血液型」という当時の医学の最先端の話に、通俗的な古川の「血液型と気質の相関」という話が安易に結びついた。当時の庶民は「尋常小学校」卒がほとんどで、「人間が血液型で4型に分かれる」という話と「気質が血液型と関係している」という話はすぐに「腑に落ちた」のである。

 事実、大阪の大丸百貨店では、客寄せに無料の「血液型検査所」を開設したところ、これが大当たりで沢山のお客が詰めかけた。さらに街には「血液型占い師」というのも登場した。1回70銭で、お客の指から血液を一滴採取して血液型を判定し、それに基づいて性格や運勢を占ってくれるというものだ。血液型占いの原型はこの時の流行に求められよう。
 
 この古川説に対して医学者として真っ向から批判したのが京大医学部解剖学の助教授金関丈夫(後九大教授)である。彼は「血液型が遺伝することははっきりしている。もし血液型により気質が決定されるのであれば、気質もまた遺伝しなければならない。しかし親子の間でさえ、メンデルの法則にそうような気質の遺伝関係ははっきりしない」と主張した。

 これは古川説の弱点をついていた。古川は「血液型が気質を決定する」ということの研究に打ち込んでいて、気質の遺伝については調べていなかったのだ。ちなみに古川のデータは、気質の決定法も統計処理法もデタラメである。

忘れ去られてしまった科学的な検証の歴史

 法医学の分野では金沢医大の正木信夫や守安直孝が、実際に健康人の血液型と気質を調べたところ、古川のいうような相関は認めらなかった(再現性がなかった)と批判した。古川説にとどめを刺したのは、金沢医大法医学の教授だった古畑種基の変節である。はじめ古川説の支援者だった古畑は、1936年に東京帝国大学の教授に転じると、翌年から医学専門雑誌に、打って変わって古川説批判の論評を連載し始めた。このように古川説に対する非難が急速に高まり、彼は追い詰められて行った。

「流行には必ず終わりがある」。ストレスを溜めた古川は1940年、風邪をこじらせて急性肺炎のため急死した。まだ49歳だった。こうして1927年に始まった古川竹二の研究は、わずか13年で終った。この時、古川説を追いこんだのは医学界からの批判であり、古川の出身母体である心理学会は何ら批判を加えていない。
 
 この事件は、結婚差別、就職差別、職業に対する偏見など多くの社会問題を生んだ事件だから、医学史や科学史の上で特筆されるべき出来事だが、科学史や医学史のスキャンダルを扱った欧米の本にはまったく載っていない。

 なぜなら日本だけで起こった事件だからである。日本の専門書でも日本心理学史の本2) には簡単に触れてあるが、日本医学史の本には書かれていない。わずかに日本科学史のスキャンダルを扱った本3) にふれてあるだけだ。古川の死と共に、「血液型・気質相関」説は死滅したかのように思われたが、それが戦後も何度も甦生するのは、事件そのものが知られていないことに原因の一つがあると思われる。

 後編では「血液型と性格」相関論の戦後における再生とブームを取り上げる。

シリーズ「血液型による性格診断を信じるバカ」バックナンバー

〔参考文献〕
1) 古川竹二「血液型と気質」, 三省堂,1932
2)松田薫「血液型と性格の社会史」,河出書房新社,1991/5
3)科学朝日編「スキャンダルの科学史」, 朝日選書, 1997/1

難波紘二(なんば・こうじ)

広島大学名誉教授。1941年、広島市生まれ。広島大学医学部大学院博士課程修了。呉共済病院で臨床病理科初代科長として勤務。NIH国際奨学生に選ばれ、米国NIHCancerCenterの病理部に2年間留学し血液病理学を研鑽。広島大学総合科学部教授となり、倫理学、生命倫理学へも研究の幅を広げ、現在、広島大学名誉教授。自宅に「鹿鳴荘病理研究所」を設立。2006年に起こった病気腎移植問題では、容認派として発言し注目される。著書に『歴史のなかの性―性倫理の歴史(改訂版)』(渓水社、1994)、『生と死のおきて 生命倫理の基本問題を考える』(渓水社、2001)、『覚悟としての死生学』(文春新書、2004)、『誰がアレクサンドロスを殺したのか?』(岩波書店、2007)などがある。広島大学総合科学部101冊の本プロジェクト編『大学新入生に薦める101冊の本』(岩波書店、2005)では、編集代表を務めた。

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