眼球を摘出した医師は「後はお任せください」と言って署を去り、亡くなられた男性のご家族も帰路につかれました。私は、共に仕事をした刑事課の方々とお見送りをしながら、なんとも言えない気持ちで胸がいっぱいになりました。
1人の男性の命が失われたことは悲しいことです。しかし、ご家族はその現実を正面から受け止め、そして、男性が生前から持っていた眼球提供の意思をしっかりと受け継いで、角膜移植に同意されたのです。このケースでは、何が成功に導いた要因だったのでしょうか?
第1に、迅速な変死への対応です。角膜移植のための眼球摘出は、死後12時間程度が限度といわれています。今回は通報後、速やかに検視と死体検案が行われました。監察医制度が施行されている地域では、夜間に発生した変死は、翌日の昼間に死体検案が行われます。したがって、せっかくの尊い遺志が活かされないこともあるのが現状です。今回の所轄署では、迅速に対応するという刑事警察の基本を忠実に守っていたのです。
第2に、良好なコミュニケーションです。担当した係員は、今回のような特殊事例に対して、全員が一丸となり、役割分担を忠実に遂行できました。これは日頃からチームワークが形成されているからこそできる対応です。
そして最後に、ご家族の警察に対する厚い信頼があったこと。突然の死にもかかわらず、このような冷静な対応ができた背景には、警察官への信頼があったからでしょう。そして、それを培ったのは、警察官のご家族に対する配慮(家族の話に耳を傾ける、十分な説明を行う、家族の待機場所を用意する)があったからです。日頃からこのような対応を心掛けている、あるいは実践しているからこそ、今回の事態を成功に導くことができたのです。
今回は私が忘れることのできない事案を紹介しました。今後、医療は進歩し、変死者からの臓器提供および移植手術をする状況が増えることと思います。
一杉正仁(ひとすぎ・まさひと)
滋賀医科大学社会医学講座(法医学)教授。厚生労働省死体解剖資格認定医、日本法医学会法医認定医、専門は外因死の予防医学、交通外傷分析、血栓症突然死の病態解析。東京慈恵会医科大学卒業後、内科医として研修。東京慈恵会医科大学大学院医学研究科博士課程(社会医学系法医学)を修了。獨協医科大学法医学講座准教授などを経て現職。1999~2014年、警視庁嘱託警察医、栃木県警察本部嘱託警察医として、数多くの司法解剖や死因究明に携わる。日本交通科学学会(理事)、日本法医学会、日本犯罪学会(ともに評議員)など。