MENU

【連載第19回 遺伝子検査は本当に未来を幸福にするのか?】

遺伝子差別禁止法のない自主規制のままの日本。野放し状態でプライバシーは守られるのか?

DNASABETSU02.jpg

米国では2008年に遺伝子情報差別禁止法(GINA)が成立したが、日本では......。

shutterstock

 雇用者に遺伝子差別させない米国遺伝子情報差別禁止法(GINA)は、2008年に成立して以来、多くの労働者を守ってきた。

 ただし、生命保険、所得補償保険、長期介護保険は対象外のため、労働者を完全に保護できない制度上のネックが残っている。

医療記録に残ると保険加入や雇用へ波及する......

 「ニューヨーク・タイムズ」の記事を紹介しよう――。

 ペンシルバニア州の大学病院に勤務する外科レジデントのブライアン・S(仮名)は、母親が長年煩っている遺伝性血管性白質脳症 (CADASIL)を発症するリスクが50%あった。生命保険や長期介護保険の申請をしたかったが、申請して遺伝子検査を受ければ、遺伝子情報が医療記録に残る。しかも、ペンシルバニア州ではGINAの適用が受けられない。このジレンマに陥り、検査を受けなかったという。

 GINAが成立したものの、医師による遺伝子検査は、結果が医療記録に残るので、保険加入や雇用への波及のリスクが懸念される。ブライアン・S医師のように遺伝子検査を断念するケースは枚挙にいとまがない。

 ハーバード大学医学部遺伝学者のロバート・グリーン教授は、アルツハイマー病に罹りやすい遺伝子の保因者たちの行動研究に携わってきた。グリーン教授によれば、保因者たちの長期介護保険の加入率は、非保因者の5倍だった。保因者たちは、高い保険料を払う覚悟を決めつつ、加入を拒否されるリスクと闘ってきたのだ。

 ノースウェスタン・ミューチュアル生命保険会社の広報担当者は、「顧客が遺伝子検査の結果の提示を拒んだ場合は、より高い保険料の支払いを求めるか、保険内容を制限するか、加入を拒むかのいずれかになる。顧客の医療情報が明確でなければ、保険会社は、契約を断る実務上の権利がある」と保険契約の正当性と秘匿性を強く主張する。

 保険会社は、加入者が収める保険料が多ければ多いほど利潤を得る。米国の多くの企業は、自家保険に加入し、従業員の健康保険料を負担する。遺伝子リスクの高い保因者に社会保険費や研修費などのコストをかけたくない。将来にわたって健康であると保証された者を雇いたい。それが企業経営者の偽らざるホンネだろうか。

 しかし、遺伝子疾患に罹る可能性の高い人だけが、保険加入の拒否、採用の取消しや解雇に甘んじ、昇進や人事異動でも不当な扱いを受けなければならないのだろうか? このような遺伝子差別や人権侵害の弊害や問題点は、米国では認知が少しずつ深まってきた。自主規制や労働者保護の観点から、社会的なコンセンサスが形成されつつあるのだ。

自主規制の日本で遺伝子情報は守られるのか?

 翻って日本はどうか? 現在、米国のGINAのような遺伝子差別禁止法はない。ガイドラインとしては、文部科学省、厚生労働省、経済産業省の3省が共同作成した「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」がある。人間の尊厳の尊重、インフォームド・コンセント(十分な説明と自由意思による同意)、個人情報の保護の徹底などを策定している。

 遺伝子医療については、個人の遺伝子情報が適切かつ有効に医療の場で活用されることを目的に、2011年に日本医学会が公表した「医療における遺伝学的検査・診断に関するガイドライン」がある。このガイドラインでは、すでに発症している患者の遺伝学的検査と、発症前診断・出生前診断に2分類している。ただ、遺伝子情報の運用は、医療・研究機関などの倫理的な自主規制に一任されているのが現状だ。

 日本の保険学会や保険業界はどうか? 保険加入時の遺伝子情報の利用に関するガイドラインはなく、保険加入時の遺伝子情報の取扱いは、保険会社の裁量に委ねられている。保険加入時に保険会社は、加入申込者の告知書への記入とともにケースバイケースで、診断書や血液などの検査結果の提示を求め、加入の是非を判断する。つまり保険会社は、告知義務を課された加入申込者の遺伝子情報を何らの制限もなく知ることができる。

 さらに、保険会社は、保険の引受け基準を営業上の秘密として公表しないので、加入申込者の遺伝学的な形質などによって、加入を拒否しても理由を明らかにしない。したがって、保険会社は、加入申込者の遺伝情報を恣意的に独断し、濫用するおそれがある。現在の保険実務では、保険加入時の遺伝子検査は行わない慣例という。だが、保険加入時の遺伝子情報の取扱いに、何らかの法的な規制や明確なガイドラインが欠かせないのは確かだ。

 今後、日本でもDTC遺伝子検査、ゲノム創薬、遺伝子データベースなどのパーソナルゲノムサービス(PGS)の浸透で、遺伝子差別や個人のプライバシー侵害の問題が起こる可能性はとても高い。法律を整備し、遺伝子差別の禁止、遺伝子情報の漏洩や目的外利用などの法的規制を求めるだけでなく、遺伝子医療や遺伝子検査の実態と問題点をよく知り、倫理的・人道的な立場で、遺伝子医療や遺伝子検査を理解することも必要だろう。


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

連載「遺伝子検査は本当に未来を幸福にするのか?」バックナンバー

関連記事
アクセスランキング
専門家一覧
Doctors marche