江戸時代のコメ余りが江戸に新しい食文化を生んだ
大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康が築いた江戸幕府は、秀吉のこの政策を踏襲します。全国各地に天領地という直轄地を作り、代官を置いて直接農産物を手に入れます(水戸黄門でよくドラマの舞台になる場所ですね)。さらに、全国の大名からも年貢を納めさせます。
平和の維持と技術の進歩で、次第に面積当たりの米の収率が上がり、江戸時代半ばにはかなりたくさんの米が江戸にあふれるようになります。俸給を米でもらった武士たちが換金することもあり、江戸に積みあがった白米の俵は行き場を求めることになります。
その一つの解決策は、1日2食だった労働者の食事を1日3食にして米の消費量を増やすこと。江戸の大火からの復興でたくさんの労働者が必要になった時に、たくさんの時間働かせるため、それまで1日に食であった労働者に昼間も握り飯を食べさせるという方法が編み出されました。白米は食べたらすぐにエネルギーにできるので、お昼に握り飯を食わせておくことで長時間労働が可能になったのです。為政者にとってはなんとも都合の良い食べ物です。
もう一つの面白い解決策は間食、ファストフードとしての寿司の流行ですね。田舎の農民に取ってみれば、お金にひとしい白米が都会ではファストフードとして消費され始めるのです。それでも「寿司」という発明品が美味しかったことから(白米自体がおいしいですからね)、寿司という食べ方は日本全土に広がって現代に至るわけです。
2型糖尿病になって糖質制限しなくちゃという現代人の悩みの種のご馳走として今につながるわけですねえ。
コメ余りでの寿司の誕生と砂糖余りでのお菓子の誕生は似ている
以上の変化ははヨーロッパにおける砂糖余りと似ています。
大航海時代からしばらくして、アフリカで人を狩ることが始まります。アフリカ人奴隷をたくさん集めてきて南の島に連れていき、サトウキビのプランテーションを経営して砂糖を作ることも始まりました。砂糖も白米同様に、長期保存が可能でエネルギーとしての利用価値も高い食品でした。
しかし、最初は高級品だった砂糖でしたが、あまりにたくさん作って値崩れしてきて、砂糖商人たちは困ります。
それに目を付けたのが労働者です。労働者に、紅茶に砂糖を入れて飲ませると、急速に上がる血糖値にドーパミンは出るわ筋肉のエネルギーは補給されるわで、ちょっとの休憩ですぐに働いてくれるようになります。為政者としては安く手て便利な白い粉ですね。また、紅茶と結びつけて一般庶民に販路を広げることで、砂糖商人たちも大きな利益を安定して確保していくことができたのです。
こうして紅茶やコーヒーに砂糖を入れて飲むという習慣もできましたし、砂糖を使ったお菓子も発達したわけです。こちらもお金儲けがスタート地点になるのですね。
米とはこれからも適度な距離感で上手に付き合って
ということで、米に貨幣としての価値を見出した秀吉が米の生産量・流通量を著しく上げた。必然的に白米を大量に消費する文化が育まれ、寿司も誕生した。このことが現代人のお米大好きにつながっていると、私は考えるわけです。
こう考えてみると、やはり「日本人は神代の時代から米を食べて」という話は怪しいなと思ってしまうのです。
でも、お米が人類の歴史を大きく動かしてきた偉大な食物であることもまた確かですよね。そう思いながら、くら寿司の「酢だいこん握り」を食べてみるのも面白そうです。
以上の話、基本的には歴史オタクの私の考察であり、裏付けをしっかり取った話ではありません、ご了承ください。
参考:低糖質ダイエットは危険なのか?中年おやじドクターの実践検証結果報告
http://xn--oqqx32i2ck.com/review/cat12/post_273.html