食べ方は生き方そのものか?
発言の前後関係が端折られて、見出し映えする部分のみがクローズアップされるのはマスコミ報道の常でああるが、当時の破局記事を丁寧に読み返せば、理恵さんは「すする音」の内実をこう説明している。
「そこに人間性や生き方が出るので……」「人生を共に歩むパートナーとしては無理だと思った」と、すでに当時から食事中の音に関して本質的な問題を述べていたのだ。
思い返せば例のヌ―ハラ問題、2020年東京五輪を控えての「やや過敏気味なおもてなし現象」の一端と思えなくもない。
「音のたてて食べること」自体が世界の食卓マナー相場では異例中の異例だとしても、外国人観光客をもてなすためにインド国民が手で食べる習慣を改めたり、中国人が食べ残す礼節をやめたり、韓国人社会がいきなり食器を手で持って食べ物を口に運ぶ日が訪れるとは思えない。
しかし、「すする行為」は伝統や食文化の問題として一件落着をみても、王理恵さんが我慢できなかった「音」の問題は個人と個人(あるいは家と家)の育ちや躾、未来を左右しかねない価値観(結婚観や人生観)をも包括するだけに侮れない。
「たかが音、されど音」でありながら、王さんの例をあげるまでもなく、カップルの破局例は巷間ありがちな光景ではなかろうか。
ところで、あなたが日々の食事中に<クチャクチャ、ピチャピチャ、ズルズル>と無意識に発している「音」は、同席者の誰かを不快にさせてはいないだろうか?
(文=編集部)