イヌイットの食生活は目まぐるしく変質した。1855年の調査では、イヌイットの3大栄養素の摂取比率は、タンパク質47.1%、炭水化物7.4%、脂質45.5%。1976年の調査では、タンパク質23%、炭水化物38%、脂質39%。121年間に、穀物などの炭水化物の摂取比率は、およそ5倍以上に跳ね上がっている。
イギリスの権威ある医学雑誌「ランセット・オンコロジー」(2008年9月号)によれば、このようなイヌイットの伝統的な食生活の崩壊は、イヌイットの疾病構造を大きく変えたと指摘する。
第1は、EB(エプスタイン・バー)ウイルスがイヌイット社会に持ち込まれたために、EBウイルス感染症による鼻咽頭がん、唾液腺がんが急増した。EBウイルス感染症は、ヘルペスウイルス群に属するDNAウイルスがヒトのBリンパ球(抗体産出細胞)に感染して起きる伝染病。主にキスによって伝播されるため「kissing disease」と呼ばれ、感染者の血液中に大量の白血球(単核球)が見られることから「伝染性単核球症」ともいう。EBウイルス感染症は、ヒトの唾液や咽頭で生息・伝播し、極度の疲労感、発熱、扁桃炎、リンパ節腫脹などを伴う。EBウイルスの特定のDNAは、感染したBリンパ球の細胞分裂周期を変化させるため、鼻咽頭がん、唾液腺がんの発症につながった。
第2は、欧米人との交流が活発になって半世紀が経過した1950年代から、定住化・都市化・欧米化が追風になり、イヌイットの社会はかつてはまったく存在しなかったタバコ、アルコール、麻薬などを受け入れ、生活習慣が大転換を遂げた。その結果、肺がん、大腸がん、乳がんが急速に増加した。一方、イヌイットは、白人に多い前立腺がん、精巣がん、造血器腫瘍(血液がん)に罹るリスクが低い事実も判明した。イヌイットの若者は、糖質を大量に含むハンバーガーやピザなどを好んで食べたので、ジャンクフードが摂取カロリーの大半を占めるまでになり、がんの罹患率がさらに高まった。
このように、EBウイルス感染症、喫煙、飲酒、薬物の摂取、小麦などの穀物やジャンクフードを偏食する生活習慣は、わずか半世紀でイヌイットの社会を根底から覆し、食生活も疾病構造も大きく塗り替えてしまった。とりわけ、炭水化物(糖質)の過剰摂取が、さまざまながんを蔓延させたのは明白だ。歴史的にも、経済的にも、イヌイットの社会が受け入れざるを得なかった食文化の大変動。その貴重な教訓を医療に活かさなければならない。
(文=編集部)
参考文献
岸上伸啓「イヌイット『極北の狩猟民』のいま」(中央公論新社、2005年)
岸上伸啓「極北の民カナダ・イヌイット」(弘文堂、1998年)
熊谷朗「EPAの医学」(中山書店、1994年)ほか