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【DNA鑑定秘話 第6回】

ワインの大量飲酒による鉛中毒か?遺髪から解き明かされるベートヴェンの死因

ワインの大量飲酒による鉛中毒か?遺髪から解き明かされるベートヴェンの死因の画像1

20世紀後半から本格化したベートヴェンの遺髪の解析により、その死因が明らかに!

 あどけなさが残る16歳の少年が往年の大作曲家に巡り会えたのは、1827年3月27日。ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンが56歳の生涯を終えた翌日だった。

 少年の名は後に指揮者として名を馳せるフェルディナンド・ヒラー。彼はベートーヴェンの棺の傍らに立ち、「先生の髪の毛を一房、譲ってもらえませんか」と懇願した。写真で遺影を残せなかったこの時代、亡くなった人の毛髪の房を遺品として持つ習慣があった。

 ベートーヴェンの遺髪は、ヒラー家に代々受け継がれた。そして、第2次大戦まっただ中の1943年、ゲシュタポの迫害から数百人ものユダヤ人を救った医師、ケイ・アレクサンダー・フレミングの手に渡る。戦後、ベートーヴェンの遺髪は世界中の熱狂的愛好家たちの崇拝の的となり、現在は、ワシントン国会図書館、ハートフォード大学、ロンドン大英図書館、ウィーン楽友協会、ボンのベートーヴェンの家で大切に保管されている。

モルヒネは検出されず、鉛の濃度は通常の42〜100倍

 1994年12月、ベートーヴェンの遺髪がサザビーのオークションにかけられた。3600ポンド (7300ドル)で落札したのはアメリカ・ベートーヴェン協会。こうして、遺髪鑑定が行われる準備が整った。グレー、シルバー、ブラウンが入り混じった毛髪582本。長さは7~15cm。毛髪は1か月に約1.3cm伸びるので、亡くなるまでの6~12か月間に伸びた毛髪と推定できた。

 1996年5月、サイケメディクス・コーポレーションのワーナー・バウムガートナー医師は、ラジオイムノアッセイ法を使って遺髪中のモルヒネの有無を分析。ラジオイムノアッセイ法は、放射性同位元素を利用して微量な抗原の量を測定する免疫学的な検査法だ。19世紀のヨーロッパでは、鎮痛、解熱、下痢止めにモルヒネを頻用した。だが、腹痛の持病があったベートーヴェンの遺髪からモルヒネは検出されなかった。過量の投薬をする主治医への不信感が募り、モルヒネを拒んでいたのだろうか。

 1999年6月、ノース・カロライナ州のラボラトリー・コーポレーション・オブ・アメリカでマーシャ・アイゼンブルグらは遺髪のミトコンドリアDNAの塩基配列を分析し、ベートーヴェン自身のものと確認。同年秋、シカゴ・マックローン研究所のウォルター・マックローンは、走査電子顕微鏡・エネルギー分散型X線分光分析装置を使って微量元素を分析。遺髪中の鉛の濃度は正常人の42倍 (25 ppm)もあり、死因は重症の鉛中毒の可能性が高いことが判明する。だが、1820年当時に梅毒治療に用いられていた水銀は検出されず、梅毒の罹患説は否定された。

 2000年9月、アメリカエネルギー省の国立アルゴンヌ研究所の研究者は、非破壊シンクロトロンX線蛍光分析を使って遺髪中の微量元素を分析。その結果、遺髪中の鉛の濃度は正常人の約100倍(60 ppm)、鉛中毒を再確認した。水銀と砒素は検出されなかった。さらに、2007年、ウィーン医科大学法医学教室のクリスチャン・ライター教授は、レーザーアブレーション質量分析装置を使って毛髪各部位の鉛の含有量を測定。その結果、死亡前の111日間に毛髪中の鉛の含有量が増加していたことが明らかになった。

鉛中毒の原因はワインの大量飲酒?

 当時、ワインの製造に甘味添加物として鉛の化合物(酢酸鉛)がよく使われた。ベートーヴェンは、どれくらいの量のワインを飲んでいたのか? 遺髪中の鉛の濃度から推定すると少なくとも1日3~4本(約3ℓ)。これは過剰な飲酒量だ。ワインの大量飲酒は、ベートーヴェンの持病といわれる腹痛、胃痛、神経症、うつ病を引き起こし、鉛中毒が死を招いたと考えられる。

 鉛中毒になると、腹痛、頭痛、感覚の喪失、脱力のほか、歩行困難、食欲不振、嘔吐、便秘、骨や関節の痛み、貧血、性欲減退、不妊、勃起機能不全、性格の変化などの諸症状が出るほか、腎障害、脳症、運動神経麻痺、肝硬変などを起こす恐れがある。

 2005年12月、米国エネルギー省の国立アルゴンヌ研究所は、ベートーヴェンの頭蓋骨片の微量元素解析を行なった。その結果、毛髪を上回る高濃度の鉛を検出。人体内での鉛の半減期は約22年で、その95%は骨に蓄積するので、少なくとも死亡前の20年間、鉛中毒だったことが確認された。

 ベートーヴェンは、20歳代後半から耳硬化症(じこうかしょう)という伝音性難聴に苦しんだ。耳硬化症は、内耳に振動を伝えるアブミ骨が振動しなくなるために、音を感じ取りにくくなる病気だ。ただ、音を聴き取る中枢機能はあるので、近くの音なら聞こえたり、骨伝導で聴き取ったりできる。ベートーヴェンは、口にくわえた棒をピアノに押し当てて音を聴いていたともいう。人の声は聞こえにくくても、ピアノの音は、振動音で聴けたはずだ。

 耳硬化症に悩み、鉛中毒に苦しめられたベートーヴェン。今なら、耳硬化症は手術で改善できるし、鉛中毒は予防できる。「私の楽譜、財産の全てを不滅の恋人に捧げる」。遺書に残した不滅の恋人とは、誰なのか? 「希望よ、お前は心を鉄に鍛える。勇気よ、お前は正しい道に導く。友よ、拍手を! 喜劇は終わった」。ワイン好きだった天才の苦悩と歓喜に乾杯!


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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