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地下鉄サリン事件の被害者となった現役がん専門医が語る"あの日の真実"

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サリン事件の夜 医師を襲った死の恐怖shutterstock.com

 今年は、地下鉄サリン事件20周年になります。いまだにサリンの後遺症で悩む人や、PTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しんでいる方もいらっしゃいます。われわれはこの事件を忘れてはいけないし、あのようなテロを許してはならないと思います。実は、私はあの事件の被害者であり、重症で入院していました。20年経った今も、当時のことを鮮明に覚えています。

 1995年3月20日、その日は月曜日でした。当時、私は国立がんセンター中央病院のレジデントとして勤務していました。普段はバイク通勤をしていたのが、前日に千葉の病院で当直のアルバイトがあったため、千葉から総武線に乗り秋葉原駅で日比谷線に乗り換えて、築地にある国立がんセンターに向かう途中でした。8時を過ぎたあたりでしょうか、電車が八丁堀駅で突然止まりました。しばらくすると、車内放送で、「ホームで病人が倒れています。医療関係者のか方がいらっしゃいましたら、お願いいたします。」と声がかかりました。

 医師の免許をもらってから、このような場面に遭遇することはしばしばあり、救急病院の経験もあったので、ホームに降りてみました。すると、ホームの真ん中あたりで、人だかりができており、そこに50歳代くらいの女性が泡をふいて倒れていました。既に心肺停止している状況でしたが、瞳孔は縮瞳している状況でした。瞳孔が開いていると、脳神経機能がなくなっている状態なので、まだ助かる可能性があると思い、その場で、人工呼吸(マウスツーマウス)と、心臓マッサージを始めました。

 しばらくすると、「私も手伝います」と30歳代くらいの看護師という方が、手伝ってくれました。15分くらいしてからでしょうか。救急隊が来たので、患者さんを救急隊に任せました。

足に力が入らず立ち上がれなくなってしまう

 蘇生術を終え、救急隊に患者さんをまかせた後、立ち上がろうとしたその時でした。足にまったく力が入らず、立ち上がって歩くことができなくなりました。目の前がだんだん暗くなっていくのにも気がつきました。立つことも歩くこともできない状態となり、近くの人に、「救急車を呼んでください」と言い、その後、私は、救急隊の担架に乗せられて、救急搬送されることになりました。

 幸い何とか意識があったので、私は救急隊の人に、「国立がんセンター中央病院に運んでください」と言いました。本来このような状況であれば、八丁堀駅から最も近い総合病院である聖路加病院に搬送されるのが良いとは思います。しかし、私の周りでも何人もの人たちが、救急車に乗せられている状況であり、聖路加病院がパニックになっていることは容易に想像できました。あえて、私は自分の勤務先である国立がんセンターへの搬送をお願いしました。

 当時は、聖路加病院には数百人が入院し、場所がなくて、礼拝堂にも病床をつくったといいます。国立がんセンター中央病院でも私を含めて、約40名が入院しました。普段は、がん以外の患者さんが入院するなどはあり得ないことですが、緊急事態ですから、しょうがありません。

 私の症状としては、目が見えにくい(全体が暗い)、手足のしびれ、吐き気でした。幸いにして、呼吸がしにくい、意識が薄れるなどの症状はありませんでした。サリン中毒としては、軽症の部類には入るでしょうが、国立がんセンター中央病院に入院した中では、2番目に重症でした。

 コリンエステラーゼ(ChE)という酵素の値で重症度がわかりますが、私のコリンエステラーゼの値は、40IU/Lしかありませんでした。本来は234-493IU/Lぐらいが正常値です。サリンは、神経毒ですから、アセチルコリンをブロックして、呼吸筋を麻痺させ、死に至らしめるという毒物です。最も重症なかたは、ICU(集中治療室)に入院しました。

 私は八丁堀駅に倒れていた患者さんの心肺蘇生をしている最中に患者さんのからだや、衣服についていたサリンを吸ったことによる中毒症状だったのですが、それでも、コリンエステラーゼが40IU/Lしかなかったということは、サリンがどれだけ猛毒かということがわかると思います。

一本前の電車に乗り合わせていたら生きていられなかった

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