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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第19回】

夭折の歌人・石川啄木を死に至らしめた「結核」は、なぜ根絶できないのか?

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石川啄木は1912(明治45)年4月13日に満26歳で没(写真はWikipediaより)

 4月13日は夭折の歌人・石川啄木の命日である。1912年(明治45年)に満26歳という若さで没している。死因は肺結核

 この病は、啄木のみならず、彼の家族をも苦しめた。平成26年度の日本の結核患者数は1万9615人。今回は、啄木の生涯をたどりながら、かつて日本では「国民病」「亡国病」とまで言われるほど猛威をふるった結核について見ていきたい。

19歳で処女詩集『あこがれ』を出版

 石川啄木こと石川一(はじめ)は、1886(明治19)年2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市玉山区)の曹洞宗日照山常光寺で生誕した。1歳の時、父・一禎(いってい)が渋民村の宝徳寺住職に就く。西に岩手山、東に姫神山。渋民村は、啄木のふるさとになった。

 「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川」
 「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」

 小学校を首席で卒業、神童と噂される。中学時代は、終生の親友となる金田一京助に文学的な薫陶を受けつつ、文芸雑誌『明星』を熟読、与謝野晶子に憧れ、妻・節子と恋に落ちた。

「砂山の砂に腹ばい初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」
「やはらかに積れる雪に熱(ほ)てる頬を埋むるごとき恋してみたし」

 盛岡中学中退後、19歳で処女詩集『あこがれ』を出版。渋民小学校代用教員、新聞記者を経て上京、『東京朝日新聞』の校正係に。24歳、1910(明治43)年、551首を収めた歌集『一握の砂』を出版。大逆事件に衝撃を受け、社会主義思想に傾倒した。

 啄木鳥(きつつき)のように痩せていたことから、自嘲を込めて「啄木」というペンネームをつけたらしい。

 「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」
 「はたらけどはたらけどなほわが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」

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