本田を急襲したM7(急性巨核芽球性白血病)の恐怖!なぜ死は不可避なのか?
急性骨髄性白血病(AML)は、細胞ががん化する段階や細胞がんの未熟度などによって「M0~M7」の8つの病型に分類(FAB分類)される。これらの病型のうち、本田の病因となったM7(急性巨核芽球性白血病)を見よう。
先述のように、急性骨髄性白血病(AML)は、白血病細胞が増殖して骨髄を占拠するので、正常な造血が行えなくなり、赤血球、白血球、血小板が減少するために出血、易感染症、貧血などの諸症状を起こす。また、末梢血にあふれ出た白血病細胞が各臓器に浸潤し、各臓器の組織をがん化する。
M7(急性巨核芽球性白血病)の最大の特徴は、予後が極めて不良である点だ。M7(急性巨核芽球性白血病)は、分化能を失った幼若造血細胞(芽球)が自律的に増殖する悪性腫瘍疾患であることから、染色体異常や遺伝子変異がある場合、初回の寛解導入療法に対する治療反応性が不良である場合、再発した場合などは、予後不良に陥りやすいからだ。
特に致命的な要因は「治療抵抗性」だ。治療抵抗性は、有効であると科学的に証明されている標準治療を行っても効果が弱く、または効果が減弱するために、再発する状態だ。
たとえば、本田が受けた抗がん剤なら、治療の始めから効かない自然耐性が現れたり、治療を継続しても、最初は有効だった薬効が失われる獲得耐性を生じるなどの治療抵抗性を示しやすい。なぜか? その答えは、がんの不均一性という仕組みにある。
がんは、クローン(同一の起源を持ち、均一な遺伝情報を持つ核酸の集団)だ。単一のがんの中にも多数のサブクローンが存在する。がん進化のシミュレーションの知見によれば、がんの不均一性は、がんの進化の過程でクローンが分岐する中立進化によって生じるため、がんの治療抵抗性の根源的な原因になりやすい。言い換えれば、中立進化によって生じた無数のサブクローンの中から治療抵抗性を持つクローンが出現し、がんが再発する。
つまり、がんの不均一性があれば、治療感受性の高いクローンが大多数を占めるがんが治療によって縮小しても、治療抵抗性の強い少数のクローンが残存すれば、そのクローンが増殖するので、がんが再発する。
ちなみに、中立進化とは、チャールズ・ダーウィンが提唱した古典的な自然選択による進化に対し、有利でも不利でもない中立的な変異が集団に偶然に広まるために起こる進化の多様性をさす。このがんのクローン進化説に立てば、がんの不均一性がある限り、治療抵抗性(自然耐性、獲得耐性)によって治療の有効性が著しく阻害されるので、予後不良を招き、寛解の可能性は極めて低くなる。
したがって、このような根拠と機序に基づけば、本田の病因は、始めから抗がん剤が効かない自然耐性と、治療を続けていくうちに、最初は有効だった抗がん剤が効かなくなる獲得耐性によって治療抵抗性が強化されたことから、免疫力が著しく減衰した。その帰結として、標準治療の目安である「寛解後療法を4回施療」したものの、予後不良のために寛解に至らず、致死したと推定できる。
急性骨髄性白血病(AML)の発症頻度は、10万人当たりおよそ2~3人。本田が発症した明白な原因は不明だ。急死は不可避だったのだろうか?
ミュージカルの新星から、クラシカル・クロスオーバーの歌姫に大変身!
本田美奈子.(工藤美奈子)。1967(昭和42)年7月31日、東京都板橋区生まれ。血液型O型。14歳、中学3年生、「スター誕生!」のオーディションを受け決戦大会へ。15歳、決戦大会で松田聖子の「ブルーエンジェル」を歌うが落選。少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ芸能界入り。
17歳、第8回長崎歌謡祭に出場し、グランプリ受賞。「殺意のバカンス」でデビュー。「Temptation(誘惑)」がヒット。数多くの新人賞を獲得する。18歳、「1986年のマリリン」をリリース。へそを露出した衣装や激しく腰を振るアクションが人気に火を付ける。20歳、女性ロックバンド「MINAKO with WILD CATS」を結成。21歳、「Oneway Generation」「孤独なハリケーン」がオリコンランキング2位を獲得。やがて大転身のステージが回ってくる。
23歳、ミュージカル「ミス・サイゴン」のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役を射止める。声量、歌唱力、演技力を高く評価され、第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞も受賞。
だが、厄災にも晒される。25歳、「ミス・サイゴン」の公演中に舞台装置の滑車に右足を轢かれる大事故に遭遇。足の指4本の骨折、19針を縫う重傷、全治3か月の診断。リハビリに励み、1か月足らずで特製ギプスを装着して完全復帰。1年半に及ぶロングランを大成功に導き、舞台関係者を仰天させる。
27歳、「屋根の上のバイオリン弾き」でホーデル役を熱演。29歳、「王様と私」にタプチム役、「レ・ミゼラブル」にエポニーヌ役で続演、辛辣な演劇批評家らからも絶賛される。31歳、エイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」(プッチーニのオペラ「蝶々夫人」より)を初披露。観客は、流星のように煌びやかなアリアに酔いしれる。
33歳、サリン事件チャリティーコンサートでラフマニノフの「ヴォカリーズ」を独唱。続いてシドニーのオペラハウスの日豪親善コンサートに出演、「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」「ある晴れた日に」を絶唱。クラシカル・クロスオーバーの新天地へと飛翔を遂げる。
35歳、沖縄戦に散ったひめゆり学徒隊の悲劇を描いたミュージカル「ひめゆり」のキミ役を全身全霊を注いで力演。ミュージカル女優の輝かしい名声を一身に受ける。
37歳、桑田佳祐が書き下ろした楽曲をアレンジしたミュージカル「クラウディア」のクラウディア役を淡々としかし情熱的に熟演。奇しくも最後のミュージカル出演となる。
この年は、多忙で息つく間もない。「N響ほっとコンサート」でNHK交響楽団のフルオーケストラをバックに「新世界」「シシリエンヌ」を独唱、万雷の拍手が降り注ぐ。アンコールにも応じる。3オクターブの美声が聴ける「パッヘルベルのカノン」を収録した遺作アルバム「時」もリリース。
年末、武道館のチャリティ・コンサート「Act Against AIDS」をプロデュース。38度を超える発熱をおして「ジュピター」「1986年のマリリン」を入魂渾身の熱唱。スタンディング・オベーションの波が打ちつづくラスト・ステージ。感涙、感動、喝采のウエイブは、幕が降りても止もうとしない。
舞台では、演じない。強く生きたいから。強く生きてみせたいから。
10代デビューの走りの頃は、大人っぽく見せたくて虚勢を張った。背伸びもした。セクシーなマリリン・モンローに溺れた。オーバーアクションのマドンナも真似た。だが本田は、アイドルスターと呼ばれる評価を嫌い、アーティストと賞賛される多難な道をあえて選ぶ。
20歳そこそこで、名ギタリスト、ゲイリー・ムーアから「the Cross 愛の十字架」の楽曲を提供される。クイーンのブライアン・メイのプロデュースでシングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」も制作。ラトーヤ・ジャクソンの来日公演の時は、ジョイントコンサートにチャレンジ。ジャクソン・ファミリーとも親しくなり、全曲英語詞のアルバム「OVERSEA」を意欲的に創作。グローバルなヴォーカルだけで生きるエンターテイナーの道を追い続ける。
本田のようにデビュー数年後に海外ミュージシャンとコラボレートした日本人のミュージシャンは、まずいない。その進取の気性みなぎる若々しいスピリットは、ミュージカルのステージに、さらに天性の輝きをもたらす。
ミュージカルの主役、プリマドンナの地位を揺るぎない高みに導いた「ミス・サイゴン」「屋根の上のバイオリン弾き」「王様と私」「レ・ミゼラブル」「ひめゆり」。ヒロインの生き様に肉薄した演技と歌唱力。鬼気迫る神がかりのような天分の横溢。ミュージカルのロングランでも、決してテンションが落ちない。
「私は舞台では、演じない。強く生きたいから。強く生きてみせたいから。何百回やっても、毎回違うから、ちっとも飽きない」
その不世出な天与の才能は、クラシカル・クロスオーバーの新世界でも彗星のような煌めきを失わない。
(文=佐藤博)
佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。