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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第20回】

歴女に人気の「大谷吉継」はハンセン病だった? 梅毒だった可能性も?

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歴女からの注目度が急上昇(写真はWikipediaより)

 NHK大河ドラマ『真田丸』では片岡愛之助演じるところの大谷吉継(おおたに よしつぐ)。天下分け目の関ヶ原の戦いに向き合った時、いかに生きるべきかの決断を迫られたのか。その42歳の生涯はいかなるものだったのか?

 吉継は、前世の罪業の報いのために発症すると妄信されていたハンセン病に罹り、醜く崩れた顔を白い布で覆っていたと伝わる。その信憑性はいかほどか?

 1565(永禄8)年、吉継は近江国(滋賀県)に生誕。父は六角氏の旧臣・大谷吉房または青蓮院門跡坊官・大谷泰珍。母は、豊臣秀吉の正室・高台院の侍女・東殿(ひかし)。八幡神社の前に落ちていた松の実を食べると授かったことから、幼名は慶松と呼ばれる。

 1577(天正5)年10月、織田信長が豊臣秀吉に播磨国の攻略を命じた時、弱冠12歳の吉継は、秀吉の御馬廻り衆になる。

 1585(天正13)年、20歳の時、大転機が訪れる。紀州征伐に2,000の兵を率いて進軍、武功を立てる。秀吉が公家・近衛前久の猶子(甥)となり、従一位・関白に就任。吉継は従五位に叙任され、大谷刑部(ぎょうぶ)の栄誉を授かる。1586(天正14)年、九州征伐で三成の下で功績を上げ、兵站奉行に昇進する。

 24歳の1589(天正17)年、北国から畿内への輸送拠点、出兵時の物資の調達拠点となる敦賀城2万石の城主となる。秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、船奉行・軍監として船舶の調達や物資輸送の手配に手腕を発揮した。

関ヶ原の戦いで西軍の三成に加勢するも、味方の寝返りに遭遇!

 1598(慶長3)年8月、秀吉の死去後、吉継は五大老の徳川家康に接近。前田利長らによる家康暗殺計画を知るや、徳川邸に馳せ参じて警護。

 1600(慶長5)年、家康の上杉景勝討伐に3,000の兵を率いて参戦。途上、三成の居城・佐和山城へと立ち寄るが、三成から家康への挙兵を持ちかけられ、当惑する。

 吉継は「無謀なり、勝機なし。金のみで人は動くにあらず。大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す」と挙兵を思いとどまらせようと三成を強く説得。だが、三成の決意は揺るがない。惨敗を知りながらも、3万余の兵を投入し、西軍に与しようと決断する。

 吉継は、まず東軍の前田利長を牽制しつつ、越前国・加賀国の諸大名を味方に付ける。9月、三成の要請を受け、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進軍。

 9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦端が切られる。吉継は関ヶ原の西南にある藤川台におよそ5,700人の軍勢で布陣。西軍の毛利軍や島津軍は動かず傍観するなか、東軍の藤堂高虎、京極高知と激闘する。

 ところが、秀吉の養子・小早川秀秋の1万5,000人が東軍に寝返りし、脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人も裏切るという苦々しい展開に。包囲され、猛攻に晒された吉継の軍勢は四面楚歌。進退窮まった吉継は、家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹。

 その時、秀秋の陣に向かって叫ぶ。「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん!」。享年42の最後だった。

 秀秋は関ヶ原の戦いの2年後、21歳で狂乱死。人々は吉継の祟りと恐れをなしたかもしれない。吉継の首は、関ヶ原または米原の地に埋葬された。

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