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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第16回】

不世出の細菌学者・野口英世、黄熱病の研究と撲滅で向かった西アフリカで客死

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野口英世は1928年5月21日、享年51で死去(shutterstock.com)

 古今東西、偉業を成し遂げた天才科学者は数知れない。だが、日本が国家の近代化・西欧化に躍起になっていた明治初期の黎明期に、「西洋医学のパイオニアになる!」と意を決して単身渡米、世界を股に駆けながら、身を挺して未知の細菌やウイルスと闘った科学者といえば、野口英世のほかに見当たらない。

 英世は、1876(明治9)年11月9日、福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(猪苗代町)の貧農家の長男坊(幼名は清作)として生まれる。北に磐梯山、南に猪苗代湖。百年一日、風景も風土も人柄も昔ながらの鄙びた村落は、野口には忘れられない望郷の桃源郷だった。

 生家は、代々裕福な富農だったが、父・佐代助の酒癖が祟って家は傾き、日々の寝食さえもこと欠く。一家を支えたのは、働き者の母・シカ。夜明け前から日没まで田畑を耕し、育児、家事の一切を切り回しながら、読み書きを知らない文盲から苦学して、産婆(産科医)で身を立てる。生涯に2000児もの赤子を取り上げた堅忍不抜の良母だった。

大火傷した左手が開いた医師への道

 1歳半の時、命運を決する瀕死のアクシデントが英世を襲う。近くの小川で洗い物をしていたシカは突如、耳をつんざく泣き声に気づく。慌てて駆けつけると、囲炉裏に落ちて、左手が焼け焦げた無惨な英世の姿が……。近隣に医者はない。懸命の手当の甲斐なく、指は手の平に固く癒着したまま開かない。

 小学校に入学した英世は、固く閉じた指をからかう悪ガキたちの心ないイジメに晒される。英世は、耐えつつ胸に誓う。「絶対に一番になるぞ!」。半年後、学内トップの成績で学術優等賞を受ける。負けん気の強さと利発さがムクムクと頭角を現す。だが、「左手が不自由じゃ田は耕せねェ、学問の道で身を立てねば!」とシカに励まされ、英世は背筋を伸ばす。

 15歳、会津若松の開業医・渡部鼎(わたなべかなえ)の執刀で手術は成功。左手の指先は不自由ながらも動いた。医者になる決意を固める。17歳、渡部医師から医学や細菌学の基礎を学ぶ。英世の勉学出資の後ろ盾になる高山高等歯科医学院の歯科医師・血脇守之助と知り会ったのも、この頃だ。

 21歳、医師免許の臨床試験で必須の打診ができないため、帝国大学外科学教授・近藤次繁の執刀で再手術。打診が可能になり、医師免許を取得。だが、開業資金がなく、左手のコンプレクスから開業医を断念、学者を志す。血脇医師の計らいで順天堂医院の助手となり研鑽を積む。22歳、順天堂医院長・佐藤進の紹介を受け、血清療法の開発者・北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に入所できる幸運もあった。

 坪内逍遥の小説『当世書生気質』に登場する、借金にまみれて自堕落な生活を送る「野々口精作」の名と「野口清作」が酷似していることを嫌い、改名。借金しつつ、遊郭などで遊興する自らの悪癖に辟易し、自責の念に駆られたのだろうか?

ノーベル医学・生理学賞にノミネート

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