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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第15回】

華々しい功績の代償!? 放射線被曝によって奪われたキュリー夫人の生涯

 だが、ノーベル化学賞受賞後の1911年12月、キュリー夫人は、うつ病と腎炎で入院。翌年、再入院して腎臓の手術後、サナトリウムに入り、郊外で療養。第一次世界大戦の勃発後は、X線撮影設備を車に搭載し、野戦病院などを廻り、負傷者の治療に奔走。この車は「プチ・キュリー(ちびキュリー)」と呼ばれた。

 1932年、転倒して右手首を骨折、頭痛や耳鳴りなどが続き、体調不調に陥る。1933年、胆石が見つかったが、手術を拒む。1934年5月、結核の診断。療養のため、フランス東部のサナトリウムへ。肺に異常はなかったが、血液検査の結果、再生不良性貧血が発覚した。

 1934年7月4日、急死。享年66だった。夫ピエールが眠る墓地に永眠している。

 死因の再生不良性貧血は、骨髄の造血幹細胞が減少し、赤血球、白血球、血小板のすべての血球が激減する汎血球減少症だ。貧血、感染による発熱、出血などの症状が起こる。原因は、原因不明の特発性が90%以上を占めるが、薬剤や薬物、放射線なども誘因になる。罹患率は、人口100万人あたり約8.2人の稀な疾患。男女とも10~20歳代と70~80歳代にピークがある。

 20世紀初頭は、放射線被曝の危険性は周知されておらず、放射線防護策も十分に取られていなかった。キュリー夫人は、放射性同位体の入った試験管をポケットに入れて持ち歩いていたという。晩年は、白内障に罹り失明に近い状態だった。長年の研究の放射線被曝によって、造血幹細胞が傷害を受け、再生不良性貧血の発症につながった。だが、放射線被曝による健康被害については決して認めなかったといわれているが、真偽は不明だ。

 キュリー夫人の死後、放射線研究は長足の進歩を遂げ、医療をはじめ、産業、工業など様々な領域で活用されている。だが、一方では、放射能汚染や放射線被曝による環境や健康へのリスクも問われている。

 東日本大震災が招いた福島第一原発事故の生々しい実態をキュリー夫人が知ったなら、どのように行動するだろうか? 加熱する原発の開発競争、放射性物質の海洋流出、環境汚染、川内原発の再稼働に警鐘を鳴らすだろうか?

 「個人の改善なくして、社会の改革はありません、私を取り巻くものの中に活気あふれるものがあるとすれば、それは永遠に不滅な冒険精神です」


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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