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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第15回】

華々しい功績の代償!? 放射線被曝によって奪われたキュリー夫人の生涯

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キュリー夫人は1934年7月4日、再生不良性貧血で急死Boris15 / Shutterstock.com

 マリア・スクウォドフスカ・キュリーは、1867年11月7日、ポーランドのワルシャワ生まれ。父はペテルブルク大学で数学と物理学の教鞭を執る科学者、母は女学校の校長を務める教育者だった。末っ子のマリアは、両親、3人の姉、兄の寵愛を受けて育つ。

 当時のポーランドは、ウィーン会議で分割された後、帝政ロシアによる併合や知識人への弾圧、ビスマルク抑圧政策の板ばさみに会い、国民は人権や自由を奪われていた。過酷な国家状況の中、マリアが6歳の時、父は教職を追われ、母も病床に伏す。困惑した一家をさらに惨禍が襲う。姉がチフスで、母が結核で他界。マリアは14歳の時、深刻なうつ状態に陥る。

 16歳で非合法のワルシャワ移動大学に学び、住み込みの家庭教師で糊口をしのぐ。1890年、22歳の時、農工博物館の実験室で初めて化学実験に没頭。1891年10月、パリへ。当時、女性でも科学教育を受けられる数少ないパリ大学で物理、化学、数学を苦学して修得。昼は学生、夕方は家庭教師。冬は暖房もなく、食うや食わずの生活だったが、努力の末、1893年、25歳で物理学の学士資格を取得。フランス工業振興協会から受託した鋼鉄の磁気的性質の研究に打ち込むが、実験場が手狭になり困窮する。

 その時、手を差しのべたのが、フランス人科学者のピエール・キュリーだった。パリ市立工業物理化学高等専門大学の教授だったピエールは、イオン結晶の誘電分極の研究で実績を残し、キュリーの法則(磁化を磁界で割った物質の磁化率は、絶対温度に反比例するという法則)の基本原理をすでに解明していた。

 1895年7月、マリアはピエールと結婚。教会での誓いもリングも、宴もない質素な挙式だった。マリアは人生の伴侶と有能な研究パートナーを得た。やがて長女イレーヌも出産、母性愛に目覚める。

 その後、キュリー夫人は、夫とともに放射線研究に苦闘を重ね、1903年、ウランなどの放射性同位元素の研究成果が評価されて、女性初のノーベル物理学賞を受賞。1911年、ラジウムとポロニウムの発見の功績が認められてノーベル化学賞を受賞。ジェンダーと国籍というハードルを越えて、女性の物理学者、化学者の草分けとしても大いに貢献した。

放射線被曝に奪われた66年の生涯

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