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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第14回】

虚弱体質のJ・F・ケネディはステロイドの副作用「アジソン病」に苦しんだ

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ジョン・F・ケネディは、1963年11月22日、テキサス州ダラス市で暗殺されたthatsmymop / Shutterstock.com

 戦後の日本経済を急成長させ、生活の豊かさを高揚させた一大イベント、東京オリンピック。その開催を迎える前年の1963(昭和38)年、衝撃的な事件が世界を震撼させる。11月22日午後1時30分頃(日本時間23日午前3時30分頃)、第35代米国大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、テキサス州ダラス市で凶弾に倒れる。惨劇は、ダラス空港からオープンカーで市内の演説会場に向かうエルム通りで起きた。

 ケネディ暗殺のニュースは、日米間のテレビジョン衛星中継の実験放送が行われた当日の午前5時27分42秒~48分の20分間と、午前8時58分~9時15分の17分間に流れた。勤労感謝の日だった。実行犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後にナイトクラブのオーナー、ジャック・ルビーに射殺される。その4年後、ルビーは、肺がんによる肺塞栓症で死去。ケネディ暗殺は、世界に衝撃を与え、半世紀以上を経た現在も、その真相はまだ明かされていない。

生まれつきの虚弱体質だった

 ケネディの生立ちと病歴を追ってみよう。なお、以下の事実関係は、ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロウィッツの共著『ケネディ家の人々』(草思社)に拠っている。

 ケネディは、1917年5月29日 、アイルランドから移民した実業家の父・ジョセフ、母・ローズの次男としてマサチューセッツ州ブルックラインで生誕する。その名は、ボストン市長、下院議員を務めた母の祖父、ジョン・F・フィッツジェラルドにちなむ。

 ケネディ家の長女・ローズマリーは、先天性の脳障害があったため、母はローズマリーの世話に追われ、幼少期のケネディを顧みるゆとりがなかった。ケネディは愛に餓えつつ精神的なストレスを抱えていた。しかも、生まれつきの虚弱体質だったケネディは、脊髄の発育不全のためケガをしやすく、しばしば背骨や腰は激痛に襲われる。3歳の時、猩紅熱に罹り、回復が危ぶまれるほどの重症だった。

 小学校へ上がると、引越しのために転校を繰り返す。13歳、コネティカット州の寄宿学校カンタベリー・スクールに落ち着くが、体調不良に陥り、1年で退学。兄・ジョセフが在籍するチョート校に転校後も、兄への強いコンプレックスに悩み、勉学は捗々しく進まない。校内でモッカー(校則違反者)などとこき下ろされる。育ち盛りの高校時代、身長約180cm、体重50kgのガリガリ体型だったケネディは、慢性の下痢、胃痛、腹痛に苦しむ。卒業の前年、体調不良や胃腸障害が嵩じて、ステロイドの投与を受ける。

 1935年、チョート校を卒業後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学。再び体調を崩し、黄疸と診断されて帰国。プリンストン大学に入学後も、慢性骨髄性白血病で入院。翌年、ハーバード大学では、落第ぎりぎりの成績だったが、父・ジョセフの尽力によって無事に卒業。ケネディの背骨の痛みは、大学時代のフットボール中のケガが原因とされる。だが、フットボールが続けられる健康体でなかったのは明らかだ。

 第二次世界大戦後、慢性副腎皮質機能低下症(アジソン病)に罹る。青春期に受けた大量のステロイド投与の副作用が原因とされている。アジソン病は、生命の維持に欠かせない副腎皮質ホルモン(糖質コルチコイド)を下垂体が分泌できなくなり、副腎皮質機能が損なわれる慢性疾患だ。

 主な症状は、色黒、倦怠感、脱力感、体重減少、食欲不振、便秘、下痢、低血圧、低血糖などのほか、不安、集中力の低下などの精神症状を呈する。甲状腺疾患を発症していたケネディは、自己免疫の低下が関連する特発性アジソン病だった可能性がある。また、強い性衝動や自殺衝動も見られたことから、使用していたヒドロコルチゾンの副作用の影響も否定できない。

苦しい病体を圧しながらも大統領の激務に耐えた

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