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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第11回】

最晩年の江戸川乱歩は「パーキンソン病」と闘いながら口述筆記で執筆

最晩年の江戸川乱歩は「パーキンソン病」と闘いながら口述筆記で執筆の画像1

江戸川乱歩は1965年7月28日、くも膜下出血で死去

 1894(明治27)年8月1日、日清戦争が勃発。「清、討たん!」。旭日旗(軍旗)に国民の戦意は勇み立つが、戦況は泥沼化し、戦争の出口は見えなかった。

 戦意高揚のさなかの10月21日、江戸川乱歩(平井太郎)は、三重県名賀郡名張町(現・名張市)で生を受ける。待ちかねた長男坊の誕生に、名賀郡役所書記の父・平井繁男も、母・きくも感涙歓喜した。

 生家の平井家は武家を継ぐ家系で、祖先は伊豆伊東(静岡県)の名だたる郷士。戦国武将・藤堂高虎の血を引く津藩(三重県)の藤堂家に代々仕え、乱歩の祖父は、藤堂家の藩士を勤め上げた名うての武将だった。

 乱歩は、幼少の頃から父の転勤が重なり、鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)や名古屋市などを皮切りに、生涯に46回も転居を繰り返した。

 1923(大正12)年、29歳の時、新進推理作家の森下雨村と小酒井不木に出会い、雑誌「新青年」に掲載した「二銭銅貨」でデビュー。「二銭銅貨」は、エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」や「盗まれた手紙」をヒントに、独特の暗号解読のトリックを巧妙に仕込み、好評を博した。

 関東大震災が起きた2年後の1925(大正14)年、名探偵明智小五郎が活躍する「D坂の殺人事件」や「心理試験」「黒手紙」「赤い部屋」を「新青年」に発表。棒縞の浴衣と格子戸を組み合わせて錯覚をおこす謎を鮮やかに解いて見せた。

高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎、そしてパーキンソン病との死闘!

 大作家も生老病死は、避けられない。晩年は、高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎を患い、パーキンソン病にも犯される。

 とりわけ、パーキンソン病との闘病は熾烈だったと伝わる。だが、著作欲は衰えない。家族を病床に呼び寄せ、口述筆記させながら、評論や著作を積み上げた。

 パーキンソン病は、中脳黒質の変性によってドーパミンが不足し、安静時振戦、無動、筋強剛、姿勢反射障害などの運動障害を招く難病だ。患者数は10万人当たり、およそ100~150人。病理のメカニズムは未解明のため、根本的な治療はない。治療薬としては、レポドバやド−パミンアゴニスト、グルタチオンの点滴が有効とされる。だが、投薬による副作用のリスクも否めない。症状はゆっくりと進行し、最終的に寝たきりになるケースが少なくない。乱歩も寝たきりを強いられた。

「現世は夢、夜の夢こそまこと」、そのの最期は?

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