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【DNA鑑定秘話 第18回】

日本初! 死刑から再審無罪の強盗殺人事件「免田事件」のずさんな鑑定とは?

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冤罪の恐怖が赤裸々に記された免田栄さんの著書

 敗戦から3年たった1948(昭和23)年。GHQ(連合国総司令部)の民主化政策が進み、戦後復興の熱い土音は日本中に満ちていた。極東国際軍事裁判で有罪判決が下った東条英機ら7名の絞首刑が執行された11月12日。笠置シズ子が歌う「東京ブギウギ」がラジオから流れていた。

 年末も押し詰まった12月29日の深夜、惨劇が起きる――。午後11時30分頃、熊本県人吉市北泉田町で祈祷師の夫(76歳)と妻(52歳)が頭部や頸部に刺創・割創を受けて即死。長女(14歳)と次女(12歳)が頭部に割創による重傷を負い、現金が盗まれた。翌30日午前3時20分頃、歳末警戒のために外出していた次男(18歳)が長女の叫び声を聞き、警察に通報した。

 1949年1月13日、人吉警察署は、熊本県球磨郡免田町(現・あさぎり町)在住の免田栄さん(23歳)を玄米の窃盗容疑で別件逮捕。1月16日、殺人容疑で再逮捕。警察は、勾留した3日間、免田さんに暴行・脅迫を加えて自白を強要。1月28日、強盗殺人罪で起訴した。

 免田さんは熊本地裁第3回公判で「拷問で自白を強要された。事件当日は特殊飲食店の女性と遊興しており、アリバイがある」と無罪を一貫として主張。警察は、アリバイの裏づけ捜査を行うが、アリバイ証人に対して「一緒にいたのは翌日」と証言するように誘導。検察は、証拠品である凶器の鉈(なた)、免田さんが犯行時に着用し、血痕が付着していたとされる法被(はっぴ)、マフラー、ズボンなどを廃棄処分。熊本地裁は死刑を求刑した。

 免田さんは控訴するが、1951年3月19日、福岡高裁は控訴棄却。免田さんは上告。12月25日、最高裁は上告棄却。1952年1月5日、死刑が確定し、免田さんは収監された。

 死刑確定から16年、1968年に死刑囚に対する再審特例法案が国会に提出されるものの、翌年に廃案に。時の法務大臣・西郷吉之助は、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対する特別恩赦を発表し、免田さんも検討されたが、恩赦は見送られた。

 免田さんは、再審請求を続けたが、第5次請求まではすべて棄却。死刑確定後27年が経過した1979年9月27日、第6次再審請求がようやく実り、再審が始動。再審では、弁護側からアリバイを証明する明確な証拠が提出され、検察側の主張する逃走経路に不自然な点が明示される。事件は振り出しに戻った。

 1983年7月15日、事件発生から34年6か月。日本の裁判史上初の死刑確定者の再審無罪判決が下る。自由の身を得た免田さんは57歳になっていた。刑事補償法に基づいて、死刑確定判決から31年7か月の拘禁日数12,559日に対して、9,071万2,800円(1日当たり約7223円)の刑事補償金が免田さんに支払われた。

 「自白じゃなくて、誘導。こっちがアリバイを主張しても、認めてくれない。警察が考えた筋書きに合わせて、こうじゃないか、ああじゃないかと追及され、オロオロするばかり。三日三晩、一睡もできず、外の空気を吸ったのはほんの何秒か。自分が自分じゃなくなっていた」。免田さんは、警察が強要した非道な自白の経緯を克明に語った。

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