チャップリンは生涯で4回、結婚しているが、妻はいずれも10代!
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」――。社会風刺とユーモア、庶民の哀愁と怒り、涙と笑い。戦禍に痛手を負った人々の胸に希望を灯したチャールズ・スペンサー・チャップリンは、「人生は欲望さ。すべてのものに欲望がある。欲望があるから、バラはバラらしく咲き、岩は岩でありたいと頑張っている」という言葉も残している。
だが、10代のうら若き女性への愛着心がことさら強かったのか、4回の結婚、3回の離婚を繰り返す。ポーラ・ネグリ、ジョージア・ヘイル、マリオン・デイヴィスなど、数知れない女優たちと浮き名を流した華々しい女性遍歴。「愛というものは、最も美しい欲求不満だ。いつでもロマンスと冒険にあこがれている」――。
初婚は1918年(28歳)。相手はミルドレッド・ハリス(16歳)。2年後に離婚。2度目の結婚は1924年(34歳)。相手はリタ・グレイ(16歳)。2子をもうけて3年後に離婚。3度目の結婚は1936年(46歳)。相手はポーレット・ゴダード(19歳)。6年後に離婚。4度目の結婚は1943年(53歳)。相手は劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ(18歳)。ウーナとは生涯連れ添い、8子をもうけた。
女優のジョーン・バレイとの父権認知訴訟
女優のジョーン・バレイ(22歳)は、1941年6月、チャップリンに雇用されるが、人間関係がしっくり行かず、翌年5月、チャップリンが契約を一方的に破棄。12月、ジョーンは拳銃を所持してチャップリン邸に押し入る。ジョーンの奇行は世間の好奇な耳目に曝された。そして1943年6月、ジョーンはカリフォルニア州裁判所に、「妊娠中の子どもの父親はチャップリン」と父権認知訴訟を起こし、同年10月、女児キャロル・アンを出産する。
1944年2月、チャップリンは、ジョーンへの市民権侵害、買春と売春目的で女性を別の州へ移すことを禁止したマン法違反の容疑で告訴される。しかし、マン法違反の容疑は無罪。チャップリンは、ジョーンが訴えた父権認知訴訟の裁判が始まる前に血液型を調べ、親子鑑定を行った。そのため「チャップリンは血液型検査で不正を働いているのでは?」などと巷では噂が飛び交う。当時のカリフォルニア州では、血液型が正式な証拠に認められていなかった。1944年12月、12人の陪審員は7対5でチャップリンに好意的な評決。陪審員の意見不一致、未決定で審理は終了した。
1945年4月、ジョーンの弁護士ジョセフ・スコットは、チャップリンを「好色なハゲタカ」「ドヤ街の放蕩者」などと痛烈に非難。同年4月、陪審員は11対1で「チャップリンに扶養義務あり」と評決。裁判所は、キャロル・アンが18歳になるまで週75ドルの養育費の支払いをチャップリンに命じた。チャップリンは55歳になっていた。